・ウチには二人の息子と二人の娘がいるらしい。
らしいというのは、大体、神出鬼没で、
一列に並べて番号!というわけにはいかない。
高校を卒業したらしい奴と、
高一らしい奴、
(この間入学式に行ってから、
まだ退学通知が来ていないらしいので)
中二、中一らしい奴である。
上二人が男で、下二人が女だが、
下二人はテニス部に入っているから、
女か男かわからないくらい、まっ黒なのだ。
髪なんか短くしていると、息子の友人から、
「あれ、お前とこ、妹だけや思てたら弟もおったんか」
などとびっくりするくらいだ。
それでもまだ、娘二人のほうは、
私と同性だから共通点もあるし、理解もできるが、
男二人についてはてんでわからない。
私は下の息子が小学五年生から見ているが、
(育てているなんて、口はばったいことはいえない)
まあ、女親の理解が行き届くのは、
五、六年生から中一ぐらいまでである。
そこから先は、男たちは女とちがう育ち方をする。
尤も、家庭の中であんまり女親や女きょうだいと、
密着して育ってしまわれたりしたら、これは困る。
男は、女の家庭同居者に理解できない状態でしか、
真の男になれないと私は思っているから、
ワケがわからなくなるほうがよい。
いつまでも大きくなった息子と、
ツーカーで話が通じますという母親は、
却ってアブノーマルである。
ただ、社会へ出た状態ではちがう。
社会的な場において、
つまり、夫と妻、という個対個の場において、
これはお互い理解しがたいものであってはならない。
対等にツーカーで、
共通の言語で語り合えるものでなければならない。
しかし、母親と息子の場合、
それができるのは、息子が社会人として、
自分も家庭や職業に生きる職業人であるとか、
家庭においても個性と自我を確立できる、
人生の年輪を経ているときに限られる。
夫と妻同様、戦士として互いに相まみえる、
そういう状態にあるときだけである。
まだ子が扶養家族であるような年ごろでは、
これは相手不足だ。対等に話ができない。
しかし、息子たちは、外的にはまだ非力であるが、
内的には充分大人だと思っているから、
そう扱ってくれない親に敵対する。
そうして突飛なことをやってみる。
しかし実力が伴わないから、失敗したり、
不本意な結果を伴ったりする。
そこでいつも不平たらたらである。
息子たちはたいてい、仏頂面をしている。
まあ、ニコニコしているよりは、
その方が青年に似つかわしい。
満ち足りて、
ギターなど抱えて歌ったり笑ったりしているのは、
学生じゃない気がする。
学生というものは、
いつも何かが足らなくて、
不平満々で傲慢と卑下、
得意と絶望のあいだをうろうろしているもんだ。
しかしそれにしても、
ウチの子がいろいろ多彩な業績をあげるのには感心する。
家出、
(これは同居の叔母と口ゲンカしたから、
学校をサボってじいさんの家へ無断で泊った)
オートバイ無免許運転、
(車が意に反して門外へ出てしまった)
楽器無断購入、
(アルバイトして月賦で払うつもりが、
アルバイト先が見つからぬ内に楽器屋が持ってきた)
学園紛争、
(授業がつまらなさすぎる)
それぞれ理屈があって、
理屈は彼にとっては、即正義なのであるが、
こっちにしてみれば、みな寸足らずの考えで、
半人前の理屈である。
要するに親の立場から見ると、
さっぱり筋通っとらへんやないか、
ということを唇とがらして言い立てるわけだ。
大人の理屈から、
ひと飛びふた飛びもしたところをいうから、
わけがわからない。
ツーカーで理解できるわけがない。
(次回へ)