むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

22、おとな息子 ①

2022年06月02日 08時50分55秒 | 田辺聖子・エッセー集










・ウチには二人の息子と二人の娘がいるらしい。

らしいというのは、大体、神出鬼没で、
一列に並べて番号!というわけにはいかない。

高校を卒業したらしい奴と、
高一らしい奴、
(この間入学式に行ってから、
まだ退学通知が来ていないらしいので)
中二、中一らしい奴である。

上二人が男で、下二人が女だが、
下二人はテニス部に入っているから、
女か男かわからないくらい、まっ黒なのだ。

髪なんか短くしていると、息子の友人から、

「あれ、お前とこ、妹だけや思てたら弟もおったんか」

などとびっくりするくらいだ。

それでもまだ、娘二人のほうは、
私と同性だから共通点もあるし、理解もできるが、
男二人についてはてんでわからない。

私は下の息子が小学五年生から見ているが、
(育てているなんて、口はばったいことはいえない)
まあ、女親の理解が行き届くのは、
五、六年生から中一ぐらいまでである。

そこから先は、男たちは女とちがう育ち方をする。

尤も、家庭の中であんまり女親や女きょうだいと、
密着して育ってしまわれたりしたら、これは困る。

男は、女の家庭同居者に理解できない状態でしか、
真の男になれないと私は思っているから、
ワケがわからなくなるほうがよい。

いつまでも大きくなった息子と、
ツーカーで話が通じますという母親は、
却ってアブノーマルである。

ただ、社会へ出た状態ではちがう。

社会的な場において、
つまり、夫と妻、という個対個の場において、
これはお互い理解しがたいものであってはならない。

対等にツーカーで、
共通の言語で語り合えるものでなければならない。

しかし、母親と息子の場合、
それができるのは、息子が社会人として、
自分も家庭や職業に生きる職業人であるとか、
家庭においても個性と自我を確立できる、
人生の年輪を経ているときに限られる。

夫と妻同様、戦士として互いに相まみえる、
そういう状態にあるときだけである。

まだ子が扶養家族であるような年ごろでは、
これは相手不足だ。対等に話ができない。

しかし、息子たちは、外的にはまだ非力であるが、
内的には充分大人だと思っているから、
そう扱ってくれない親に敵対する。

そうして突飛なことをやってみる。

しかし実力が伴わないから、失敗したり、
不本意な結果を伴ったりする。

そこでいつも不平たらたらである。
息子たちはたいてい、仏頂面をしている。

まあ、ニコニコしているよりは、
その方が青年に似つかわしい。

満ち足りて、
ギターなど抱えて歌ったり笑ったりしているのは、
学生じゃない気がする。

学生というものは、
いつも何かが足らなくて、
不平満々で傲慢と卑下、
得意と絶望のあいだをうろうろしているもんだ。

しかしそれにしても、
ウチの子がいろいろ多彩な業績をあげるのには感心する。

家出、
(これは同居の叔母と口ゲンカしたから、
学校をサボってじいさんの家へ無断で泊った)

オートバイ無免許運転、
(車が意に反して門外へ出てしまった)

楽器無断購入、
(アルバイトして月賦で払うつもりが、
アルバイト先が見つからぬ内に楽器屋が持ってきた)

学園紛争、
(授業がつまらなさすぎる)

それぞれ理屈があって、
理屈は彼にとっては、即正義なのであるが、
こっちにしてみれば、みな寸足らずの考えで、
半人前の理屈である。

要するに親の立場から見ると、
さっぱり筋通っとらへんやないか、
ということを唇とがらして言い立てるわけだ。

大人の理屈から、
ひと飛びふた飛びもしたところをいうから、
わけがわからない。
ツーカーで理解できるわけがない。






          


(次回へ)

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