むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

8、もっと広い世の中 ③

2022年07月16日 08時11分02秒 | 田辺聖子・エッセー集










・女学校の一年ごろ、
日中戦争がはじまって二、三年というころ、
クラスメートの叔父がさんが中国大陸の戦線から、
一時帰還した。

その土産話を友人が聞いてきて、
私たちに披露した。

「村中の女の人、一軒の家に押し込めて、
家ごと油かけて焼いてしまうねんて」

級友たちはみな真っ青になり、

「うそや、うそや、
そんなこと日本の兵隊さんがしはるはず、ないもん」

と言い張った。
私もそう思った。

スパイか何か悪いことした人なんとちゃう?
という子もあった。

でも、ウチの叔父ちゃん言うてたよ、
五十人も百人も女の人しばって焼き殺したって、
命令やからしょうないって。

うそや、うそや、日本の兵隊さんがそんなこと、
するはずない、「デマや」とみんなで、
口々に言い続けていたものだった。

女専へ入った年、
昭和十九年ごろ、
このときの友人に、
お父さんの知人が朝鮮の警察にいる子がいて、
その子もまた、当時の内地人にはめざましい、
裏話を聞かせてくれた。

日本政府に反抗して投獄された朝鮮の人たちが、
どんなにすさまじい拷問を受けているかということである。

その子は軽躁なおしゃべり娘だったので、
みんなはかなり割引して聞き、

「うそやろ」と私たちは言った。

その子はケロリろして、

「ほんまやしぃ~ほんまや、言うてはった」

と言っていたが、
彼女の邪気のない黒い瞳が今も目に見えるようだ。

いま思うにそれらはみな事実で、
氷山の一角にすぎなかったのだろうが、
独善優越の歴史教育の温室で、
無菌栽培された若者には、
とうてい考えることも出来ない、
「デマ」としか思えない事実だったのだ。

そうして日本は戦いに敗れた。
デマが真実になった。

次々とマスコミに発表される、
「真実はこうだ」
という事実暴露に、無智無垢無邪気な若者は、
あまりのめまぐるしさについていけず、
「えっ・・・」と絶句したきりである。

天皇は神ではなかった。
人であった。

日本はアジア解放を標榜しつつ、
劫略も殺戮も搾取もしていた。

終戦後、はじめて見たものはたくさんあった。
はじめて聞いたコトバ、読んだもの、
すべてことごとく、おどろかされるものばかり。

「民主主義」という言葉、
「自由」という言葉、
大っぴらに発音される「マルキシズム」という言葉、
「働く者の権利」という言葉。

メーデーというものを、
十八歳にしてはじめて見て、
ただただ、びっくりのほかなかった。

「軍閥」という言葉をはじめて聞く。
「軍部の横暴」
「神がかり的皇国史観のあやまり」
というものがこの世にあることを知る。

唯一絶対と信じこまされてきた日本の歴史教育は、
偏向歪曲の濃い色つけをされたものであることを、
おぼろげに悟るようになる。

若者たちの目かくしが取り払われ、
それが深い混迷を若者にもたらす。

皇国主義に殉じた者もあれば、
あらたなよりどころを求めて、
マルキシズムに走る者もあった。

信じられるものは芸術しかない、
と思う者もあった。

何も信じられず、
落ちこぼれてゆく者もあった。






          


(次回へ)

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