・教科書の書き換え問題、
検定の横暴は、祖国の過去の行為を、
客観的な視点で位置づけるということは、
別のものであるはずだが、
やがてその分際もなしくずしに「時代の力」に、
押し流されてゆく。
いまはそのトバ口にさしかかろうとしている。
右翼の擡頭、改憲運動、軍備拡張を声高に叫ぶ人々。
政府と与党はこの日本をどこへ導いてゆこうとするのか、
何をもくろんでいるのか、
私たちは踏みとどまって考えないといけないと思う。
さきに私は「前車の覆るは後車のいましめ」と書いたが、
それでは前車はいかに覆ったか。
私は1934年(昭和九年)小学校入学、
1940年(昭和十五年)旧制高等女学校入学、
1944年(昭和十九年)旧制女子専門学校入学である。
そうして1947年(昭和二十二年)に女専を卒業した。
戦後二年、まだ学生だった。
だから1945年の敗戦を境に、
戦中戦後の教育界の転変をつぶさに体験した。
ひとにぎりのインテリはさておき、
ごく普通の庶民が「正しい現在位置」を、
会得することはきわめてむつかしい。
政府の見解とちがう考え方、
というものに庶民がめぐりあう方法は、
戦争下、あるいは思想統制下の日本では、
絶望的にない。
心ある人、「わかってる」人も、
権力で口を閉ざされてしまう。
出版も放送も政府の権力のもとにある。
その中では教科書の説くところに、
庶民はしがみつかなければならない。
親も子も先生も、そこに拠るしかない。
日本はよその国とは格段に上等な国である、
と説かれるのを、信ずるほかない。
日本には万世一系の「天皇」という、
現人神(あらひとがみ)がいられ、
万民を子のごとくはぐくんで下さる、
民草は天皇を親とも慕い、
お仕え申し上げる。
そのゆえに、日本国民に生まれたことは、
人間として最高の幸福といわねばならぬ、
新たに日本人となった台湾・韓国の人々も、
その幸福をめでたきものと感激し、
日本語を使い、日本の歴史を知り、
日本人として生きる喜びと誇りに、
うちふるえるはずである。
その日本が戦うのは東洋平和のため、
アジアの盟主・先進国でアジアの兄貴分である日本が、
戦うのはヨーロッパ・アメリカの魔手から、
全アジアを救うためである。
さればこの戦争は「聖戦」と呼ばれるべきで、
天皇の軍は「皇軍」とたたえられるべきである。
聖戦を戦う皇軍が負けることはあり得ない。
皇軍はつねに「赫々の武勲」をたてるはずである。
皇軍いたるところで敵を破り、
「堂々の入城」をし、
占領地の原住民を慰撫し、
欧米の圧制者の手からアジアの民を、
解放するはずである。
そのはずであるところが、
戦時下でもひそひそと国民の間に語り伝えられる。
「そんなはずない」という「デマ」があった。
大人はともかく、
われわれ戦時下日本のよい子は、
教科書を深く信じ「皇国日本に生まれた幸福」と、
「天皇陛下の臣下へのおいつくしみ」と、
「アジアの兄貴分・日本の使命とたのもしさ」を、
つゆ疑ってはいなかったから、
それを裏切るような「デマ」を聞くと、
憤然としたものだ。
(次回へ)