むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「残花亭日暦」  9

2021年12月10日 08時32分01秒 | 「残花亭日暦」田辺聖子作










2001年(平成13年)

・9月10日(月)

暑し。
台風が来ている。

午後、取材。
カメラマンが熱心すぎて、二時間かかりくたびれてしまった。
病院へ行く気力もなくなる。

夕方、病院から電話あり、Uさんから。
グッドニュースではなかった。

今日は治療を嫌がり、暴れられました、と言う。
今は落ち着いているそう。

パパの症状について聞く。
パパの個室が電話つきなのは助かるが、
内緒の話の時は、テレビの音を大きくしている。

今はちょっと安定していても、
家へ帰れる状態ではないらしい。

もし、一、二日でも帰れるようなら、
寝室を明るくするため、木のドアをガラス戸にしてもらおう、
と私は思いめぐらした。

六時十分ごろ、庭に出て見たら、
空に薄いが壮大な虹がかかっていた。
しかも二重だった。

きれいなものを見たのに、私はかえって何もかも嫌になった。
落ち込んでしまう。

「ああ~、どっかへ行きた~い」

と思わず言ってしまう。
これは逃げて行きたい、ということである。

「へへ、あの世しかないやろな」


・9月13日(木)

毎日、うなぎ弁当や松花堂弁当を持って病院へ通い、
病人も食欲があるので喜んでいたら、
まあ、世界的な大事件が起きた。

11日にニューヨークやワシントンで同時多発テロが起きた。
12日の夕刊には世界貿易センタービルが崩壊炎上する写真が載っている。

飛行機が突っ込んで自爆、ビルを破壊させるという荒っぽい、
捨て身戦法は、戦争中の日本の特攻にそっくり。

私は原稿の締め切りに追われていて、背中に火がついているのだが、
このテロ攻撃ニュースから目を離すことが出来ない。

いくらアメリカの権力と富の中枢だといっても、
数千の市民がいるビルをぶっ飛ばすという発想は、
これは宗教的酩酊者でないと、普通の神経では敢行出来ない。

日本のカミカゼ特攻隊も、国中が思想的に酩酊していた時期だった。

昨日の夕刊では、同時テロに関与しているとして、
サウジアラビア出身の富豪、ウサマ・ビン・ラーディン氏の名をあげていた。

中東情勢には暗いというより関心のなかった私は、
反米、反イスラエルのテロリストたちの強い宗教的情熱に戦慄する。

そして何より、炎々と燃えるビルの火が、阪神大震災と重なり、
大阪大空襲とダブり、あの中の被害者を早く救助してほしい、
という祈りで心が煎られるようだった。


・9月16日(日)

三重県関町へ講演に。
昔ながらの宿場町が残されていて、風情のあるところだった。

講演は「川柳の魅力」だったので、みなさんに喜んでもらえた。
鈴鹿山のふもとの宿場町はうららかな日ざしだった。

日帰り講演で、帰宅すると七時半。
東京から弟らが来ていて、母と夕食を待っていてくれた。

今日の献立は、湯豆腐、
かぼちゃの煮いたの、カレイの焼き物、菜の花のおひたし、
お清汁(すまし)はタラの白子とネギ。


・9月19日(水)

昨日は大津の市民会館で「源氏物語の魅力」の講演。
ここは一般人対象の講座なので、夜の七時からに。
泊りがけになる。

満員の会場には思ったより男性が多く、まことに嬉しい。
途中で起つ人もなかったのは心強い。

ホテルへ引き上げる道、左手は見えないが湖岸で右は植え込み。
ここの謝礼は普通より安めだが、まあいいか。

今朝早く帰り、一服する間もなく病院へ。
パパは意外に元気で、知人のK青年が花カゴを持って見舞いに。

入院以来、お花をたくさん頂き、病室は花園のよう。
そのあいだに私の小さい絵がある。

K青年は絵をほめてくれる。
彼は何によらず、
私やおっちゃんをほめてくれるやさしい子であるが、
そこにおべんちゃらの臭気はない。

お大事に、とKくんが帰ると、
パパと私はKくんのうわさになる。

「あれ、まだ女房(よめはん)の来手はないのやろか。
真面目な青年(こぉ)やのにな」とパパ。

「真面目すぎるのかも知れへんね」と私。

Kくんは酔うと歌がうまい。
彼の生まれた九州の炭鉱街では、
酒席で順ぐりに歌うとき、相の手は、
♪それでも歌か~い♪と入れるそうだ。

応じて ♪泣くよりましだよ~♪ と返し、
座はいっそう盛り上がるということだ。

「その相の手はええなあ~」パパは嬉しそうに言った。

「今度からのお酒の席で、そう相の手を入れようね」と私。

「うん」パパはうなずく。

今度の酒席はあるのかしら?

一階の会計で何十万という金を支払った。






          


(次回へ)

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