2001年(平成13年)
・9月10日(月)
暑し。
台風が来ている。
午後、取材。
カメラマンが熱心すぎて、二時間かかりくたびれてしまった。
病院へ行く気力もなくなる。
夕方、病院から電話あり、Uさんから。
グッドニュースではなかった。
今日は治療を嫌がり、暴れられました、と言う。
今は落ち着いているそう。
パパの症状について聞く。
パパの個室が電話つきなのは助かるが、
内緒の話の時は、テレビの音を大きくしている。
今はちょっと安定していても、
家へ帰れる状態ではないらしい。
もし、一、二日でも帰れるようなら、
寝室を明るくするため、木のドアをガラス戸にしてもらおう、
と私は思いめぐらした。
六時十分ごろ、庭に出て見たら、
空に薄いが壮大な虹がかかっていた。
しかも二重だった。
きれいなものを見たのに、私はかえって何もかも嫌になった。
落ち込んでしまう。
「ああ~、どっかへ行きた~い」
と思わず言ってしまう。
これは逃げて行きたい、ということである。
「へへ、あの世しかないやろな」
・9月13日(木)
毎日、うなぎ弁当や松花堂弁当を持って病院へ通い、
病人も食欲があるので喜んでいたら、
まあ、世界的な大事件が起きた。
11日にニューヨークやワシントンで同時多発テロが起きた。
12日の夕刊には世界貿易センタービルが崩壊炎上する写真が載っている。
飛行機が突っ込んで自爆、ビルを破壊させるという荒っぽい、
捨て身戦法は、戦争中の日本の特攻にそっくり。
私は原稿の締め切りに追われていて、背中に火がついているのだが、
このテロ攻撃ニュースから目を離すことが出来ない。
いくらアメリカの権力と富の中枢だといっても、
数千の市民がいるビルをぶっ飛ばすという発想は、
これは宗教的酩酊者でないと、普通の神経では敢行出来ない。
日本のカミカゼ特攻隊も、国中が思想的に酩酊していた時期だった。
昨日の夕刊では、同時テロに関与しているとして、
サウジアラビア出身の富豪、ウサマ・ビン・ラーディン氏の名をあげていた。
中東情勢には暗いというより関心のなかった私は、
反米、反イスラエルのテロリストたちの強い宗教的情熱に戦慄する。
そして何より、炎々と燃えるビルの火が、阪神大震災と重なり、
大阪大空襲とダブり、あの中の被害者を早く救助してほしい、
という祈りで心が煎られるようだった。
・9月16日(日)
三重県関町へ講演に。
昔ながらの宿場町が残されていて、風情のあるところだった。
講演は「川柳の魅力」だったので、みなさんに喜んでもらえた。
鈴鹿山のふもとの宿場町はうららかな日ざしだった。
日帰り講演で、帰宅すると七時半。
東京から弟らが来ていて、母と夕食を待っていてくれた。
今日の献立は、湯豆腐、
かぼちゃの煮いたの、カレイの焼き物、菜の花のおひたし、
お清汁(すまし)はタラの白子とネギ。
・9月19日(水)
昨日は大津の市民会館で「源氏物語の魅力」の講演。
ここは一般人対象の講座なので、夜の七時からに。
泊りがけになる。
満員の会場には思ったより男性が多く、まことに嬉しい。
途中で起つ人もなかったのは心強い。
ホテルへ引き上げる道、左手は見えないが湖岸で右は植え込み。
ここの謝礼は普通より安めだが、まあいいか。
今朝早く帰り、一服する間もなく病院へ。
パパは意外に元気で、知人のK青年が花カゴを持って見舞いに。
入院以来、お花をたくさん頂き、病室は花園のよう。
そのあいだに私の小さい絵がある。
K青年は絵をほめてくれる。
彼は何によらず、
私やおっちゃんをほめてくれるやさしい子であるが、
そこにおべんちゃらの臭気はない。
お大事に、とKくんが帰ると、
パパと私はKくんのうわさになる。
「あれ、まだ女房(よめはん)の来手はないのやろか。
真面目な青年(こぉ)やのにな」とパパ。
「真面目すぎるのかも知れへんね」と私。
Kくんは酔うと歌がうまい。
彼の生まれた九州の炭鉱街では、
酒席で順ぐりに歌うとき、相の手は、
♪それでも歌か~い♪と入れるそうだ。
応じて ♪泣くよりましだよ~♪ と返し、
座はいっそう盛り上がるということだ。
「その相の手はええなあ~」パパは嬉しそうに言った。
「今度からのお酒の席で、そう相の手を入れようね」と私。
「うん」パパはうなずく。
今度の酒席はあるのかしら?
一階の会計で何十万という金を支払った。
(次回へ)