・何思いけん、私は旅に出た。
いったい私の人生に於いて何思いけん、
ということが多いように思う。
自分で自分の気持ちがよくわからぬ。
前に四国へ行ったのもそうだ。
室戸岬を見に行った。
これも何思いけん、何が何でも見にゃならぬ、
という必然性はなんにもない。
しかし強いていえば、
室戸岬は、関西育ちの人間には、
台風上陸地として深く印象せられている。
またそれ以上に、
戦中派にとっては、
アメリカ爆撃機の飛来侵入地点である。
B29爆撃機は熊野灘からはいって、
室戸方面へ抜けたりする。
阪神方面でしこたま、爆弾を落としてゆく。
爆弾、焼夷弾、黄燐弾、照明弾、
雨あられと落として室戸岬から逃走する。
ワルイ奴ちゃ。
しかし私は何も、他意あって、
戦争を知らぬ子供たちに、
告げ口するのでも入れヂエするのでもない。
ただ私自身の気持ちとしては、
敗戦後、すぐアメリカへ留学したり、
アメリカをほめちぎったりする人々の気がしれないと、
その当時思ったものである。
爆弾の雨の中、火の海を親兄弟、
手をひき名を呼び合いつつ、逃げまどう心持は格別である。
ビル火災や山火事とはわけが違う。
(そういうたかて、お前はアメリカの粉ミルクやコンビーフを食うて、
命つないだやないか)といわれれば、
まことにそうなんで、私としては言い返せない。
言い返せないようなことを言う奴に対して、
こんどは腹が立つだけである。
何でもよい、室戸岬を見ようと思い立った。
私は夜の船旅をして、高知へいった。
夜半、甲浦(かんのうら)に着く。
そして朝九時、定刻どおり高地に着いた。
足摺はたしかに、美しい海の色をしていた。
私の泊ったのは和風の旅館で、じいさんがいて、
「明日まわってみるところを教えましょう」
と地図を広げた。
「一に潮の満干の手洗ばち、
ほか全部で七ふしぎ、この岬の名所じゃ。
ゆるぎ石、地獄の穴、亀の石に竜の駒」
「この丸が三つついているところがそうですね。
そこへいけば見られますか」
「今はない。無うなった」
「ハア」
「跡が残っとるだけ、ここの名物は・・・」
じいさんは声はりあげて節をつけ、
「土佐で怖いはヨコメかシラか」
「ハア、土佐の人は横目か白目でにらむのですか」
「いんや、シラはシラハエ。
さつまおろしという風じゃ。
ヨコメは目付。警察」
七ふしぎの名所は跡しか残っていないというから、
朝、ジョン万次郎の銅像を見にいったら、
万次郎ははるか彼方、アメリカを見て突っ立っていたが、
フロックコートでもと思いきや、
羽織りはかまの純和装であった。何思いけん。
宇和島まで汽車はない。
時間の問題ではなくて、レールがないのだ。
地図をあらためてみて納得した。
汽車ないところへ来た大阪人て私一人だけちゃうか、
と思っていたら、宿毛で入った洋酒喫茶のバーテンさんは、
「僕、大坂の美人座に三年いました」
といっていた。
とても話が合って、いい兄ちゃんだった。
じっくりした醜男で、私は醜男愛好者である。
店内はピカピカして大阪のミナミや、
神戸の三宮にいるような気がする。
それがよけいさびしい。
朝、宿毛のバス乗り場へいく途中、
昨日の洋酒喫茶の横に立て札が立っているのをみつけた。
「ここにもの置かれん 宿毛警察署」
どうして大阪も、こういう風にやらないのかな。
「大型車あかん」「駐車でけへん」
土佐の人は面白い人が多いらしくて、
船の名前に「鰤釣丸」なんてのがある。
それにしても四万十川をこえて、
汽車のレールのない南のさいはてをさまよい、
とつおいつ迷う旅は、あとで何にも覚えておらぬ。
(次回へ)