むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

7、高千穂の夜神楽 ④

2022年05月02日 08時33分25秒 | 田辺聖子・エッセー集










・朝食をおいしく頂戴して、
じいさんたちに見送られながら村を出る。

佐藤さんたちはそのあと、
有名な高千穂峡や国見ケ丘に連れていって下さった。

峡谷といい丘といい、
すぐれて風光美しい、谷の茶屋で、
竹筒の長いのを田代さんは持って来られた。

「かっぽ酒ですたい」

酒を竹筒に入れてあたためると竹の油でいい味と匂いがする。

節に穴があるので、
傾けるとかっぽ、かっぽと鳴るのだが、

「おや、これは鳴らんとですか?」

と佐藤さんと田代さんは代る代る竹筒を傾けて、
お酒をみんな飲んでしまった。

高千穂の町は、山中にしては意外に美しく、
モダンで活気もあり、しかも神話にふさわしい場所が、
町のぐるりを取りまいていて、見るべきところが多い。

峡谷の美しさ、峯のすがすがしさ、
「日向の高千穂の峯に天降りまして」という、
古い神代の言い伝えは真実ではなかろうか。

神の降り給うた峯はここ?

「はぁ、他国から来られた人ほど、
却ってそう信じこんで帰られますたい」

とみなはいう。

高千穂の駅前で、佐藤さんや田代さんと別れ、
高森行きのバスに乗る。

ああ、あんなにすばらしい神楽を見、
神代さながらの簡素で美しい風物に接したあとは、
ひなびた温泉宿へでも行って、
ゆっくりと心身の昂奮をしずめたいものだ。

高森はもう熊本県に入る。

阿蘇の南外輪を越え、
九九曲がりといわれるくねくねした山道を折れて、
高千穂から一時間四十分で着く。

私は高森からすぐ接続になっている産交バスで、下田へ着いた。
ここから、垂玉(たるたま)温泉行きのバスが出ている。

南阿蘇はあまり人に荒されていなくて、
とくに垂玉の上にある地獄温泉は、
おおげさにいうなら秘湯である。

バスは垂玉までしか来ないが、
そこから地獄はすぐで、
私は清風荘という宿屋に泊ることにした。

シーズンオフで宿は閑散としている。
その宿は古びた大きい、旅籠風の宿で、
鍵の手に建っている。

がらんとした宿は、木造で、
廊下へ出るとガラス戸越しに見る阿蘇の山々は、
枯草色に暖かげであり、日が当たって、ものみな眠ったように、
森閑としていた。

露天風呂と白いススキ、
山のいで湯という感じは、こういうところをこそ、
いうのであろう。

宿の裏手には白い温泉の煙がたちのぼり、
よくここへ来たことだ。

宿の人の話によると、

「この宿は大体、近在の百姓さんの湯治場でして、
農閑期に自炊道具を下げて来られます。
その時は宿も風呂も賑やかになります」

ということだった。

そういえば広い庭のあちこちに自炊客のための小屋があり、
若い人用にはバンガローがあり、宿の帳場に、

「釡いくら、杓子いくら」と、
自炊道具の貸し賃が書きつけてあるのも面白い。

夏場のキャンプの賑わいも盛んだそうだ。

白濁した湯は、豊富に石の浴槽からあふれ落ち、
いつ入っても私一人だった。

明礬泉のせいか、肌がツルツルしそうな快い湯質である。

夜神楽で徹夜したので体が疲れて、
まだ夕方には間があったけど、写真をとる元気もなく、
のんびりと温泉に入ったり出たりする。

名は地獄だがまさに極楽だ。

モダンな建物が地獄と垂玉の間ぐらいにあって、
村役場の田尻さんに聞いたら、
村営の国民宿舎「南阿蘇」ということだった。

行ってみると清風荘とはまたおもむきがかわり、
バーあり、ロビーあり、若い人向けの近代建築である。
ここからの眺めも変化に富む。

清風荘に夜が更けると、
絶えて物音がない。

「山菜が唯一の名物でございます。
山芋、ぜんまい、わらび、うど・・・などで」

美人のおとなしい女中さんが、
食べきれないようなご馳走を運んで来た。

私にはわらびと小芋の煮つけ、
セリの酢味噌和えなどの山菜料理がご馳走であった。

「明日は阿蘇へのぼられますか。
曇ってきたようですが」

女中さんは膳を下げながらいった。

夜半、たしかに私はためらいがちな低い雨音を聞いた。
湯の宿は細い雨に包まれた。






          




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