・<山近き入相の鐘の声ごとに
恋ふる心の数は知るらむ>
(清水寺の夕べの鐘の音、
一つ、二つ、三つ・・・
その数はあなたをまちかねる、
私の思いの数
四つ、五つ、六つ・・・
重なり積もり、
いよいよ恋しく)
定子中宮が、
こんなにお気が弱られるって、
中宮ではいらっしゃらないみたい
私に下さるお手紙には、
いつもゆとりのある諧謔を、
もてあそんでいらしたのに
棟世の娘は、
私より早く逗留していたので、
私が帰るというと、
「それなら・・・」
と急に帰り支度をすることに、
なった
供には侍たちがおびただしく、
ついていて、
それも棟世の娘への配慮が、
なみなみならぬことを、
思わせるのだったが、
「まず、
おばさまのお邸へお送りしてから」
という
三条の私邸は手狭なので、
送ってくれても、
もてなす余裕がない
それで断ると、
「それでは守る者たちだけでも」
と五、六人の侍をつけてくれた
この頃は日中でも浮浪者や、
あばれ者が横行して、
油断ならないので、
女車は心ぼそい限りだったから、
これは嬉しかった
車の前後を騎馬で、
弓矢を帯びた侍たちが守ってくれて、
帰る途中も、
(また、
お目にかかれますわね)
と私を振り仰いでいた、
娘の言葉を思い出していた
しかしそれ以上に、
私を捉える不安の影は、
中宮のお心弱りだった
もうお側を離れることはできない
もうどこへも行かれない、
少なくとも御産が平安に、
とどこおりなくすまれるまでは、
と思う
八月に臨時の相撲があるので、
中宮も半月ばかりを、
宮中で過ごされることになった
今年は東宮もご覧になるというので、
例年よりもさわがしい
「暑さが堪えがたいから、
気の張るところへは、
もう行きたくない」
と中宮は仰せられ、
それにも私はおどろく
宮廷での花やかな催し事を、
喜ばれぬ中宮は、
考えられもしないことだった
あんなに社交界の晴れがましさ、
美々しき盛儀をたのしみに、
弾んでいらした中宮が
おん頬が削けて、
面やつれなすったように見え、
いよいよお顔の色も白くなられて、
「三条の宮にいるほうが、
気が落ち着いていい」
と仰せられる
しかし主上からのお使者は、
ひまなく来る
主上は「相撲の節会」にことよせて、
中宮にお会いになりたいらしかった
兄君の帥の大臣も、
「ご予定は十二月とすると、
いずれまた何か月かは、
宮中へお戻りになれない、
ならば今のうちに、
主上にお会いになれる機会を、
お逃しにならぬほうが、
よろしいでしょう」
と強くすすめられる
私たちも、
宮廷の花やいだざわめきが、
中宮のお気持ちを、
引き立てるであろうかと、
望みをかけておすすめする
「そうね・・・
この折に若宮たちのことを、
主上にくれぐれもお頼み、
申しあげなくては」
といわれた
主上が、
おん年五つの内親王や、
二つの若宮を恋しく思っていられ、
共に参内するように、
とおすすめになっているらしかった
相撲の節会というのは
毎年、秋のころに行われる行事で、
全国から選んだ相撲人の取組を、
主上はじめ万官が見物される
宴や雅楽もあって、
左右の近衛府がとりしきり、
この係りは年あけてすぐの、
二月三月ごろから、
相撲の強い者を全国から、
さがし求めるのである
今年は左近衛が勝つか、
右近衛が勝つか、
毎年のことながら、
賭けを争う人々もいる
その騒ぎも中宮には、
よそごとにお思いになるらしかった
節会で活気のある宮中へ入ると、
たちまちすぐに主上は、
「お上りなさい」
と中宮をお召しになる
お会いになりたくて、
たまらないお気持ちのようだった
中宮のお妹君が、
みくしげ殿として、
宮中にいらっしゃる
その方に若宮をお抱かせになって、
中宮は主上にお目通りなさる
午後からその夜、一夜中、
清涼殿の御張台に籠られて、
どれほどおむつまじい、
おん物語があったものか
中宮のおん頬に、
やっともとの微笑が浮かぶように、
なられた
「こんどのお子は、
男御子・女御子にかぎらず、
女院がお手元で、
お育てになりたいと、
仰せられている」
という主上のお言葉であった
東三条女院は、
帥の大臣とお仲がよろしくないので、
中宮ともその縁で、
よそよそしかったらしいが、
女一の宮ご誕生以来、
女院のお心がとけて、
「あまた女御はいらっしゃるのに、
皇后の宮ばかりが、
お子を儲けていらっしゃるのは、
よほど前世の縁は深いのでしょう」
とおろそかならず、
お思いのようである
「くれぐれもお大事に」
という女院のお言葉もあって、
宮中にいられるあいだ、
中宮のお身のまわりは、
にぎやかだった
二十日ばかりして、
また三条の宮に、
おもどりになる
それは九月はじめに、
彰子中宮がご入内になる、
予定が決まったかららしかった
(了)