・甘え鳴きをする翁丸を見て、
「興ざめなものは、
昼吠える犬、と思っていたが、
この翁丸は別だ」
と主上は仰せられ、
「興ざめは昼吠える犬とは、
面白いお目のつけどころ・・・
お聞かせくださいませ、
そういうふうな興ざめなものは、
ほかに何がございましょう」
と中宮は話を向けられる
「興ざめ、
白けた気持ち・・・
はて、何があるのか
みなも考えるがよい
少納言、
そなたの出番ではないのか」
主上のお弾み心が、
私にも乗り移り、
「白けるものは、
牛の死んだ牛飼い、
赤ん坊の亡くなった産屋、
火をおこさぬ火桶、
囲炉裏・・・
女の子ばかりつづけてさまに、
生まれたの・・・」
私は若宮を誇らしく思いつつ、
そう申しあげる
「物の怪を調伏するお坊さんが、
いくら祈祷しても、
効き目がなくてあくびして、
寝入ってしまうのも・・・」
というのは、
物おじしない小兵衛の君
「よい歌を詠んだのに、
返歌しないというのは、
もっとも興ざめ
頭の弁・行成と少納言、
この二人には、
歌は詠みかけるまいぞ
返してこぬのは、
わかっているのだから」
と主上は仰せられ、
それは私が中宮から、
「詠歌御免」を、
認めていただいていることを、
からかっていらっしゃる
それでまた笑い声があがって、
中宮は座の雰囲気を、
盛り上げるのが巧みでいらっしゃる
主上つきの女房たちが、
「こちらの御殿にいると楽しくて、
つい時の経つのも忘れて・・・」
というのも、
お世辞ではあるまい
私たちの笑い声に、
翁丸はいまは、
全く元気をとりもどして、
階の下まで来てじゃれるのだった
主上と中宮のおん仲のむつまじさが、
そのまま形にあらわれること、
三度目になった
中宮は三たびご懐妊になった
浮き立つ殿中の気分を、
抑えるように取り越し苦労の、
中納言の君は、
「今年は宮のおん厄年
二十五でいらっしゃるのですよ
宿曜で見ても・・・」
とこっそり、
縁起でもないことをいっている
左大臣(道長の君)どのの邸では、
「中宮三たびのご懐妊」
と聞いて、
(心ぼそくて、
皇后の宮は嬉しく、
思われるどころではなく、
ご懐妊を悔んでいられるそうな
情けないことになった
折も折とてこういうときに・・・
と泣きの涙でいられるそうな)
という噂が広まっているらしい
誰がそんな噂を流すのやら、
知れないが、
多分、彰子中宮側の人々が、
悪意をもって広めているのであろう
中宮はそういう、
下司のあて推量とは、
全く違った世界を、
悠々と生きていらっしゃる
四月には新中宮・彰子の宮が、
ご入内になるので、
中宮は三月末には退出されて、
もとの三条の宮に、
還啓されることになる
「別れて住むとは、
思わないで下さい
私はいつも、
あなたと暮らしていると、
感じている
朝も夜もあなたを強く、
感じています」
そういって、
涙をお流しになったのは、
主上のほうだった
二十一歳の、
若く美しい帝のほうだった
中宮はお泣きしならず、
ほそいおん手をのべて、
主上のおん頬に流れる涙を、
お払いになっていた
微笑みを浮かべながら、
それでもお言葉はなくて・・・
泣いたのは私のほうだった
翁丸の目に浮かぶ涙も、
主上の別れのおん涙も、
仏のおん目からごらんになれば、
同じものであるかもしれない
この世に生きる、
苦しみと喜びという点では、
私の涙は、
その感動の涙であったのだ
(了)