「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

7、生霊の女  ①

2021年07月19日 07時39分10秒 | 「今昔物語」田辺聖子訳










・野分の夜である。
真っ暗な京の町の虚空に風が咆哮している。

邸の大屋根をゆすりたてて嵐は駆け去り、駆け来る。

邸内の下屋に下人たちがかたまって、
嵐の音に耳をかたむけながら寝もやられず、
残り物の酒など汲みかわしていた。

蔀戸も閉めきっているのだが、
どこからか風が入ってくるのか小さな燈火がゆらぐ。

こんな晩に恐い話をしろって?
物好きだな、お前たちも。
おれがただ一度味わった恐怖の体験を話そう。


~~~


・今は昔、
おれは所用あって美濃・尾張に下向しようとしたことがあった。

早く京を出ようと、まだ明けきらぬうちに出発した。
町はしんと寝静まって、かわたれどきの暗さ。
無論、人かげも見えない。

ところが、なにがしの辻の大路に女が一人立っていた。
よく分からないが青みがかった衣を着て、
たった一人でたたずんでいるのだ。

何者だろう・・・とおれは思った。
こんな時分に、よもや女が一人で歩いているわけがない。

供の者か、連れの男がいるに違いない。
おれはすたすたとその横を通り抜けようとした。

と、女がおれに声をかけるじゃないか。

「もし」

かぼそい声だったが、いやに透き通る声だったな。

「そこへいらっしゃるかた・・・
どちらへお越しになるのですか?」

「美濃・尾張へまいる者です」

おれは道を急いでいたから、足も止めず言い捨てた。

「ではお急ぎでいらっしゃいますのね。
ですがぜひともお話申したいことがございますの。
どうかおみ足をとめて下さいませんか」

おれは迷惑に思いながらも足を止めて待った。
女は近寄ってくる。

仄明るい暁の光の中で、
おぼろげに浮かび上がる女の顔を見れば、
なかなかの美人じゃないか。

しかしどこか言うにいえぬひんやりした気配がただよい、
ことにその動かない見据えるような瞳が薄気味わるかった。


~~~


「何かご用ですか?」

おれが言うと、女はおれに目を据えたまま、

「民部大夫(みんぶのたいふ)の家はどこにございますか。
このあたりと聞いて参ったのですが道に迷うてしまいました。
どうかわたくしをそこまで連れていって下さいませんでしょうか」

「そりゃ困りますな」

おれは即座に言った。

「その人の家へ行かれるというのなら、
またなんだってこんな所においでになっているのですか。
その家はここから七、八町もありますよ。
そこまでお送りできればいいんですが、
私も先を急ぐ身なのでね、お許し下さいよ」

すると女はいっそうすり寄り、

「そうでございましょうけれど、
どうしてもこれは私にとって大事なことなんです。
お願いですから、どうぞお連れ下さいませ」

おれは困ったことになったと思ったが、
こんな時刻に女一人を放っておくのも気の毒になったし、
それにその邸にはおれのちょっとした知り人もいる。

まんざらすげなく袖を払って立ち去れないという気になった。
しぶしぶながら、

「じゃあ、お連れしましょう」

というと女は、

「まあ、うれしい」

といったが、その時はじめて薄く笑った。

と、瞳に光が走り、
おれはその時、なぜかぞっとしたのだ。

不気味でならなんだが気のせいだろうと心を取り直して、
女のいう民部大夫の家の門まで送りつけた。






          


(次回へ)

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