むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

22、おとな息子 ②

2022年06月03日 08時03分48秒 | 田辺聖子・エッセー集










・私はずっと若いころから、
特定の年齢の男が好きだった。
つまり、十六、七から八、九ぐらいまでの青年である。

ハタチを過ぎると、少々トウが立つ感じで、
もう関心がない。

私自身が三十二、三ぐらいになるまで、
ず~っとそうだった。

それからあとは、
だんだんそういうことにこだわらなくなってしまった・・・

尤も好きといったって、
恋人か結婚相手に擬してのことではなくて、
ただムードとしてそうなのだから、
実体ではないのである。

単に私のロマンチシズムにすぎない。

いま考えると、
戦時中の青年像をそのまま抱き続けていたせいだろう。

私は終戦のとき十七歳だった。

私と同じ年ごろの男たちが、
特攻隊や学徒兵で散華したことに、
特別な感慨を持たざるを得なかったのであろう。

その深い心の刻み目が、
いつまでたっても消えずに、
ハイミスになるまで、青年のイメージというと、
十七、八、九くらいの年ごろに固定してしまったらしい。

それでもって私は、
現実の結婚相手にふさわしい男たちを探すことなく、
中年になってしまったのだから、
間が抜けている。

私は「青年」という言葉さえ好きだった。

純粋で酷薄で直截で、いちずに烈しくて、
というイメージを持っていた。

若くして死んだ兵士たちを空想で美化すると、
どうしてもそうなる。

そしてその反対にキライなものは、
大人、親、老醜、打算、狡知などという言葉である。

こういうムードは森茉莉氏や三島由紀夫氏の小説にもある。

青年に対する特殊な嗜好が、美意識の根底にあり、
例えば三島氏なども老醜をいとわしげに描くけれど、
単に美意識から照らし合わせ、
青年愛好癖の反面から描くから、
まだ老醜は彼にあっては甘く、観念的である。

それはまあ、余談であるが、
私の十七、八、九という年ごろの男に対する、
特殊な関心はロマンチシズムにすぎないから、
彼らのみてくれ、外貌に影響されるのももちろんであった。

ほっそりしてしなやかで、若々しい身ごなしで、
何を着てもサマになりそうな、そういうものを見ていた。

彼らのいうことも、
大変よくわかって明晰で、
いつも私と考えが同じだと思うのだった。

すぐ怒りそうなムッとした顔、
ぴっちりしたズボンに包まれた格好のいいお臀、
強そうでよくバネの利きそうなほそい腰、
ほんとに森茉莉さんの小説の世界、
「枯葉の寝床」や「恋人たちの森」に出てくる、
若い美しい青年は、いるものなのだった。

といって、残念ながら、
私には現実にそういう男がいたわけじゃなく、
よく知らないで、チラと見たゆきずりの美青年なんかから、
いろいろ好み通りに作りあげていくのだった。

小説を書いている関係上、学生たちがウチへ来て、
学校新聞に載せる談話や原稿を取りにくることがあった。

彼らは小説ほど美しくはないが、
しかしさわやかで人なつこくて、
私と話しているとウマが合い、
じつに愉快だった。

そうして三十をすぎた私は、
青年や少年らとともに、
親や教師を攻撃していた。

そのころは独身だったから、
思考の身軽さにおいては、
青年たちと同じくらいだった。

それが思いがけなく、
コブつき四人でワンセットの男と一緒になった。

その頃はまだ男の子も可愛らしく、
半ズボンなどはいていたりしたものだった。

ところがずんずん私の背丈を追い越し、
声変わりをして薄ひげが生え、
筋骨隆々としてくるのは、ほとんどアッという間。

そして私の立場は、
体制側的、家庭的、親的発想へ大転回してしまった。

ほんとはしてはいけないはずであるが、
せざるを得なくなってしまう。

私はそれは、家庭というものの持つ、
本質的な排他性のためではないか、
また家庭という形態の政治性のためではないか、
と思っている。






          


(次回へ)

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