むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

22、おとな息子 ③

2022年06月04日 08時21分28秒 | 田辺聖子・エッセー集










・家庭が愛よりも秩序を重んずる場である以上、

(子供のしつけ、教育というものは、
現代では秩序を教えることを指す場合が多い。
親たちがその中で暮らしている社会の中へ、
組み入れようとするならば)

親は永遠に、
子にとってわからずやにならざるを得ない仕組み。

「こんな点は矛盾しているんじゃないか」

と若者にいわれて、

「してるけど、いっぺんに変えられない」

という答えしか出てこない。

昔(結婚する前)の私だと、

「そうなんだ、そうなんだ、
世の中まちがってる、矛盾だらけなんだ、
しっかりやろう!」

という具合になるのだ。

大人や親がそういって煽ったら、
いいかげん舞い上がりやすい連中のことだから、
カラ傘に天狗風でどこまでも飛び上がるかもしれない。

よって家族制度維持者としては、
抑えにかかることになる。

親が自由人的発想で子育てできるようになるのは、
子供を公共の育児機関に入れて、
養育を社会的事業とする制度が出来上がってからである。

また青年を身近に見てから、
私は森茉莉さんや、三島さんの想像力の豊かさ、
才能の絢爛華麗にため息をついた。

小説の中でこそ、青年は美しいが、
現実ではどうってことのないシロモノで、
一メートル七十センチの長身に身を包んで、
片や玉子焼きが大好物、
片やメザシがあれば何も要らぬという幼児食で、
風呂はいつも飛びこんで出てくるだけ、
洗うのは年に一度、大みそかである。

歯ブラシをくわえて新聞を見、
落雷のごとく階段をとどろかして上り下りし、
プロレスをやって床板をどしつかせ、
戸板を蹴倒し、
調子っぱずれのギターにドラ声はりあげて、
百年の恋も一時にさめる思いで、
「枯葉の寝床」も「恋人たちの森」もあるもんじゃない。

そりぁ、ウチの息子どもだって、
街を歩いていれば、ああいい腰つきの若者だと、
見惚れる女性があるかもしれないが、
私はこの際とくに、読者諸嬢に告ぐ。

ジーパンなぞはいて、
ぴっちりと格好良いお臀で歩いている若者を見たら、
ジーパンをたえず繕っている、
母親のことを連想して欲しい。

あんなにキッチリしたズボンに、
無理がないはずがなく、
股下や横の縫い目が必ず裂けているのである。

「頼む!」

と投げてよこしたら、
きまってお臀か前が裂けているのであって、
私はその度に縫わねばならない。

紫のシャツが欲しい、赤いの、ピンクのと、
女の子よりうるさくて、
セーターの袖口と裾がゆるんできたから何とかして、
このシャツはクリーニングで頼む、
全く亭主より厄介である。

街をいい格好で歩いている若者、
あれらの背後では母親が手を焼いているのだ。

自分で洗ったりプレスしたり、
靴を磨いたりして飾り立てるならともかく、
そんな若いうちから女を追い回して使い立てる結果が、
彼らのいい恰好であるから、
ゆめ、変なロマンチシズムに毒されないで頂きたい。

青年というのは甘えたでうぬぼれやであるから、
まあ、適当に割引してみるほうがよろしい。

わが家では、
それでは若い者を抑圧する家庭かというと、
他の多くの家庭と同じく、
ほとんど放任にちかい。

しかし放任では、
年長者として良心に咎めるから、
たとえば息子が勉強せずギターに身を入れているのを見ると、

「適当に按配やりなさい」などという。

何をあんばいするのだ、といわれても、
大阪弁は非論理的なところがあるから、
うまくいえない。

よって息子は悠々と一日中ギターをひっかいたりする。
大学を受験するといい、しないといい、
考えがふらふらしている。

「大人が指図したって反対するだけだ。
自分で決めさせろ、もう一人前の男だ」

と亭主はいうが、
叱ったり論争したりのエネルギーがないのが本音だろう。

近ごろの若者は、
総理府青少年対策本部が発表した、
「青少年に関する調査」を見てもわかるように、
もっと両親にきびしくしてほしい、
などという。

これも甘ったれのないものねだりである。

厳しくすれば自由にしろ、
とくるのは目に見えているのであって、
青年は永久にないものねだりをするのだ。






          


(次回へ)

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