・家庭が愛よりも秩序を重んずる場である以上、
(子供のしつけ、教育というものは、
現代では秩序を教えることを指す場合が多い。
親たちがその中で暮らしている社会の中へ、
組み入れようとするならば)
親は永遠に、
子にとってわからずやにならざるを得ない仕組み。
「こんな点は矛盾しているんじゃないか」
と若者にいわれて、
「してるけど、いっぺんに変えられない」
という答えしか出てこない。
昔(結婚する前)の私だと、
「そうなんだ、そうなんだ、
世の中まちがってる、矛盾だらけなんだ、
しっかりやろう!」
という具合になるのだ。
大人や親がそういって煽ったら、
いいかげん舞い上がりやすい連中のことだから、
カラ傘に天狗風でどこまでも飛び上がるかもしれない。
よって家族制度維持者としては、
抑えにかかることになる。
親が自由人的発想で子育てできるようになるのは、
子供を公共の育児機関に入れて、
養育を社会的事業とする制度が出来上がってからである。
また青年を身近に見てから、
私は森茉莉さんや、三島さんの想像力の豊かさ、
才能の絢爛華麗にため息をついた。
小説の中でこそ、青年は美しいが、
現実ではどうってことのないシロモノで、
一メートル七十センチの長身に身を包んで、
片や玉子焼きが大好物、
片やメザシがあれば何も要らぬという幼児食で、
風呂はいつも飛びこんで出てくるだけ、
洗うのは年に一度、大みそかである。
歯ブラシをくわえて新聞を見、
落雷のごとく階段をとどろかして上り下りし、
プロレスをやって床板をどしつかせ、
戸板を蹴倒し、
調子っぱずれのギターにドラ声はりあげて、
百年の恋も一時にさめる思いで、
「枯葉の寝床」も「恋人たちの森」もあるもんじゃない。
そりぁ、ウチの息子どもだって、
街を歩いていれば、ああいい腰つきの若者だと、
見惚れる女性があるかもしれないが、
私はこの際とくに、読者諸嬢に告ぐ。
ジーパンなぞはいて、
ぴっちりと格好良いお臀で歩いている若者を見たら、
ジーパンをたえず繕っている、
母親のことを連想して欲しい。
あんなにキッチリしたズボンに、
無理がないはずがなく、
股下や横の縫い目が必ず裂けているのである。
「頼む!」
と投げてよこしたら、
きまってお臀か前が裂けているのであって、
私はその度に縫わねばならない。
紫のシャツが欲しい、赤いの、ピンクのと、
女の子よりうるさくて、
セーターの袖口と裾がゆるんできたから何とかして、
このシャツはクリーニングで頼む、
全く亭主より厄介である。
街をいい格好で歩いている若者、
あれらの背後では母親が手を焼いているのだ。
自分で洗ったりプレスしたり、
靴を磨いたりして飾り立てるならともかく、
そんな若いうちから女を追い回して使い立てる結果が、
彼らのいい恰好であるから、
ゆめ、変なロマンチシズムに毒されないで頂きたい。
青年というのは甘えたでうぬぼれやであるから、
まあ、適当に割引してみるほうがよろしい。
わが家では、
それでは若い者を抑圧する家庭かというと、
他の多くの家庭と同じく、
ほとんど放任にちかい。
しかし放任では、
年長者として良心に咎めるから、
たとえば息子が勉強せずギターに身を入れているのを見ると、
「適当に按配やりなさい」などという。
何をあんばいするのだ、といわれても、
大阪弁は非論理的なところがあるから、
うまくいえない。
よって息子は悠々と一日中ギターをひっかいたりする。
大学を受験するといい、しないといい、
考えがふらふらしている。
「大人が指図したって反対するだけだ。
自分で決めさせろ、もう一人前の男だ」
と亭主はいうが、
叱ったり論争したりのエネルギーがないのが本音だろう。
近ごろの若者は、
総理府青少年対策本部が発表した、
「青少年に関する調査」を見てもわかるように、
もっと両親にきびしくしてほしい、
などという。
これも甘ったれのないものねだりである。
厳しくすれば自由にしろ、
とくるのは目に見えているのであって、
青年は永久にないものねだりをするのだ。
(次回へ)