<朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
あらはれわたる 瀬々の網代木>
(朝ぼらけ
宇治川の水面に
たちこめる霧の・・・
風に吹き立てられ
絶えま 絶えまに
夢のようにあらわれてくる
川瀬の網代木
そこ ここの瀬に
ほの見えてきた宇治の網代木)
・『千載集』巻六・冬に、
「宇治にまかりて侍りける時よめる」とある。
美しい叙景歌で、
定頼(さだより)のこの歌、私は好きである。
墨絵のよう、という人もある。
網代木(あじろぎ)というのは、
網代(竹の簾)を張るため、
川の中に立てる杭をいう。
網代で氷魚がとれる。
冬の宇治川の景物である。
また、この歌は『源氏物語』の、
宇治十帖の世界も暗示している。
藤原定頼、長徳元年(995)生まれ、
寛徳二年(1045)五十一歳で死去。
この定頼の父が55番作者、公任だが、
寛弘五年(1008)の秋、
皇子誕生パーティで公任が紫式部をさがそうとして、
「このへんに若紫はいらっしゃいませんか」
と声をかけている。
紫式部はそれを聞き、
「光源氏の君もいないのに、
紫の上がいるわけないじゃないの」
と思ったと『紫式部日記』に書いている。
してみると、このころ、もう『源氏物語』は
世に流布していた。
公任の手もとにあった『源氏物語』を、
少年の定頼も読んだことであろう。
宇治を舞台に、
宇治十帖の物語はくりひろげられる。
宇治十帖には、
もはや光源氏も登場せず、
豪奢な栄華も描かれない。
宇治の川霧にほのかに浮かぶ薄幸な恋、
満たされぬ物思い、
手にとれない幸せ、
憂愁の世界の物語である。
定頼はその物語を踏まえつつ、
川霧のたえまに浮かぶ網代木をうたう。
気取りもくせもなく、
自然をうたいあげて、
その物語背景の物憂い無常感と恋を示唆し、
人の心を誘う。
百人一首中、
屈指の佳作の一つだと、
私は思う。
父の公任は歌人・歌論家として、
在世中はもちろん死後何世紀にもわたって、
歌壇の指標的存在であったが、
われわれ現代人からみると、
公任の歌より、息子の定頼の歌の方が、
好もしく思える。
一条天皇の大堰川行幸に供奉して、
歌を詠進したとき、
父の公任は、まだほんの少年の定頼が心もとなく、
どうぞよい歌を詠んでくれと内心、
冷や汗を流していた。
講師が次第に詠み進んで、
ついに定頼の番になる。
公任が耳をひったてて聞くと、
<水もなく 見え渡るかな 大堰川・・・>
満々たる大堰川を前にして、
<水もなく>とはどういうつもりだろう。
何という不調法な、
と公任は顔色も変わる思いであったが、
<峰の紅葉葉 雨と降れども>
と朗々と下の句が詠みあげられる。
どっとあがる歓声。
公任は親の身として嬉しさをこらえきれず、
思わず会心の笑みをもらしたという。
少年の頃から定頼は、
才気あふれる歌よみであったようだ。
才子ではあるが、
やや慎重を欠く性格だったらしく、
若い頃、暴力事件で失敗している。
三条天皇の御代、
春日大社の行幸にお供したが、
たまたま定頼の従者と敦明親王の従者との間に、
争いがおこり、
カッとなった定頼は従者に命じて、
親王方の従者をぼこぼこになぐりつけた。
これが帝の逆鱗に触れて、
定頼は役目を五か年停止されてしまった。
彼はお役目を度々取り上げられているが、
それは定頼が、生来ズボラだったから、
という説もある。
すぐカッとするくせに冗談好き、
そそっかしく軽率で、ズボラで歌が巧くて、
名門貴公子で、というと、
何となく可愛げがあって、
いかにも女にもてそうな気がする。
(次回へ)