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・薫からは、
先日の手紙の返事さえ来ず、
何日か過ぎた
ある日、
右近が噂した恐ろしい内舎人が、
やってきた
話の通り荒々しくどっしり太った、
かなりの年輩、
声はしわがれ、
肝魂のすわった面つきが、
ただ者ではない
右近が応対した
「殿(薫)のお召しで、
京の三條のお邸へ参り、
今、帰って参りました
ご用と申しますのは」
男はいう
「ここにお住まいの方々のため、
夜中、暁、それがしが、
御警護に当たっているのに、
安心なされて、
宿直人を京から差し向けられることは、
なさらなんだのでございますが、
近ごろ、お耳になさるところでは、
素性の知れぬ者が、
女房のもとに通ってくるとか、
怪しからぬことである
警護の男どもは、
怠りなく督励しておりますが、
そのようなことが発生しましたら、
どうしてそれがしの耳に、
入らぬことがございましょう
なお注意して警護せよ、
不都合なことがあると、
厳重に処罰する、
との仰せで」
やんわりといいつつ、
内舎人は言外に、
これから邸の見まわり、
見張りを厳重にするから、
その旨、承知してほしい、
と右近に釘をさした
(やっぱり、
薫の君さまは事実をお知りになった
お返事もなく、
内舎人の一族が邸を囲んで、
恐ろしいことになった)
と思うと、
右近は返事も出来ない
乳母の方は、
「まあ嬉しい仰せで
さすがはお心づかいのおやさしい」
と無心に喜んでいる
浮舟は薫の意志を知って、
破滅の予感におののくばかり
匂宮からは、
「決心はついているのだろうね
迎えをやったらすぐ来るように」
と心乱れたお手紙がくる
浮舟はお文さえわずらわしい
どちらになびくにせよ、
波乱は起らずにすむまい
それなら、
自分が死んでしまえば、
面倒はないかもしれぬ
(生き長らえたら、
きっと世間の物嗤いになる
薫さまにも宮さまにも、
やがて疎まれて捨てられ、
おちぶれてさすらうかもしれぬ
死ぬ方がいくらいいか
お母さまも一時は、
お嘆きになるかもしれないけれど、
たくさんの異父弟、
異父妹がいることだし、
そのお世話にかまけて、
いつとはなく、
わたくしのことは、
お忘れになろう
薫さまもわたくしの死で、
罪を許して下さるかも)
世間知らずの、
おっとりした姫君ではあるが、
浮舟は上つ方の育ち、
ではないのでその発想は、
激越で短絡的になるのは仕方なかった
あとに残って、
人目にふれては困る文など破って、
少しずつ、燈台の火で焼いたり、
川に捨てさせたりして、
始末していった
事情を知らぬ女房たちは、
京へお移りになるのだから、
破っていられるのだろうと、
思っていた
侍従が見つけて、
「どうしてお破りになるのです
人にはお見せにならなくとも、
箱の底などに隠されて、
時々はご覧になるのも、
なつかしい思い出です」
といった
浮舟は破る手を止めず、
「いいえ、
わたくし気分がすぐれないで、
長生きできそうもないのです」
浮舟の目はすでに、
自分亡きあとのことに、
そそがれている
死ぬときは一人きりと思うと、
あまりの心細さ、
悲しさに決心も崩れる
親を置いて死ぬのは、
たいそう罪が深いという
親を送って、
その追善供養をするのこそ、
子としての道だというものを
三月二十日過ぎ、
宮がかねて、
手はずをつけておかれた、
宮の御乳母の家では、
二十八日に任国へ下るとのことで、
その夜から家を借りることが出来る
「その夜、迎えに行く
様子を気取られぬよう、
くれぐれも注意して
私の方からこの話は、
漏れることは決してない」
などとご連絡がある
しかし宮が、
どうやってこの邸へ、
お迎えに来られよう
警戒も監視も、
以前とは格段にきびしくなっている
とてもお目にはかかれまい
そのままお帰し申すことに、
なろう
宮はきっと、
ひどい仕打ちとお怨みになりつつ、
お帰りになろう・・・
浮舟はそう思うと、
声を忍んで泣いてしまう
もう一度お目にかかりたかった、
と思う
浮舟の涙は堰き止められず、
嗚咽も抑えがたい
「お姫さま、お姫さま・・・」
右近が声を忍ばせ、
浮舟の肩を抱いてかきくどく
右近も涙である
「そんなにお泣きなさいますな
周りの人々に、
見とがめられます
そんなにくよくよなさらず、
適当にお返事をなさいまし
それほど宮さまが、
思い切れないとお思いでしたら、
よろしゅうございます
この右近がどんなにしてでも、
お望みのようにしてさしあげます」
と力づける
「そうじゃないの」
浮舟は涙を拭いて、
「みな、わたくしが、
宮さまに心移りしたと、
思いこんでいるようですが、
宮さまをとると決めてしまえば、
どんなに簡単で気楽でしょう
でも、そんなわけにはいかない
最後のところで決心がつきません
それを宮さまは無理強いに、
この先、どんなことをされるのか、
とてもおとなしく身を引いては、
下さらないでしょう
それを思うと苦しく、
こんな運命のわが身が情けなく」
宮への返事は書かずじまいになった
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(次回へ)