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・子供のころのことを、
大人は忘れるというが、
私はわりあい覚えているつもりでいた。
「私の大阪八景」という小説を書いたとき、
子供時代のことはノートも日記もなく、
もっぱら記憶に頼ったものである。
書き出すと次々記憶がよみがえってきて、
不自由はしなかった。
幼児期、小学一年から六年、
それぞれに思い出があざやかなのも面白い。
そんなわけで、私は友人たちから、
「よう覚えてはるねえ。
あたしら、忘れてしもたわ」
というのを聞いて、得意であった。
「なんでや、いうたらな」
と私はいばっていった。
「あんたら、結婚して子供持ってるさかいや。
そんな人は頭がアホになるねん」
「なんやて?結婚したらアホになる、て」
と友人は聞きとがめたが、
元々気のいい女なので怒りもせず、
「なんでやの?なんでやの?いうてえな」
「それはね、
子供を育てるということは現在に生きることやさかいや。
過去の自分より、現在の自分の方が切実で、
存在が大きいさかいね。
しかも女にとっては、子供は単に子供やあれへん。
自分そのものや、分身なんてものと違うやろ」
「そやそや」
「自分が現在、子供になって生きとんのに、
過去の自分の子供時代なんか思い出せますか。
はるかかなたにチリ煙のごとく、
かすんどって当り前です」
「そんなもんやろか」
「現在の我が子のことだけが大きいに広がって、
あとはおぼろ・・・です。
一種の真空状態やさかいね、
これをしも、アホという」
「そうかいなあ」
と人のいい友人はうなずいているが、
思えば未婚時代の私は、
人のいい連中ばかり集めて、
気炎をあげ、煙にまいていたものだ。
さて、そういう私自身、
一生結婚しないつもりでいたのに、
(つまりアホにならぬために)
どんなもののはずみか、
ある男性とよもやま話をしているうちに、
話題が結婚式のことにうつり、
二人で一般の風潮が華美になったのを嘆いていると、
「どんな結婚式が望ましいですやろか?」
と彼は聞いた。
「さあ、人生、なんでも簡単なんがよろしのん違いますか」
と私は答えた。
「そんなら、式なしで一緒に棲むのがよろしか?」
「まあ、やっぱり、
区切りはつけたほうがええのん違いますか。
周囲(はた)の人が挨拶するとき、困りますやろ」
「そら、そやね。
ほんなら労働会館でも・・・」
「小さな教会の方が安上がりちゃいますか」
「よろし、ほな、行きましょう。
ええところあります」
「ちょっと待ってください。
誰のことですか?私、一般の話してますねん」
と私は狼狽したが、
あっという間に私は気がつけば亭主を一人と、
子供四人を持つハメになっていた。
なんとなれば、
彼は四人の子供とワンセットになっているからである。
で、私も、ついつい、アホの仲間入りをしたわけであるが、
こうなってみると、自分が子供のころを覚えているというのは、
ごくごく表面的な、かいなでの部分にすぎないことがわかった。
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(次回へ)