・1985年はずいぶんいろんなことのあった年で、
あわただしかった。
たくさんの人に死に別れ、旅行もうんとして、
これは毎度のことだけど、締め切りぎりぎり、
すべり込みセーフで原稿を書き、担当編集者を悩ました。
ファクシミリを夜中の十二時一時にごとごと送り、
担当編集者を眠らせなかった元凶は私である。
ごめんなさいね。
さて、一年をトータルして考えたことは二つあって、
一つは、人は死にゆく、ということである。
ロス・マクドナルドには、
「人の死にゆく道」というのがあるが、
今年は、かねてその作品が好きだった小泉喜美子さんが急逝され、
川上宗薫さんが亡くなられた。
宗薫さんは亡くなられる前に、
「淫霊」という長編をものしていられて、
これは明晰な、きりっとした大人の小説で、
お酒でいうとワイルドターキーをロックで飲むような、
凛たる風味がある。面白かった。
それと並行して書いていられたのが、
サンケイの「小説WOO(ウー)」に載った、
「死にたくない!」ではあるまいか。
こちらは一見破綻にみえ、
墨汁を流したように晦冥であるが、
その底に端正な気息が通っている。
透明な感覚があって、
川上さんが最後の最後まで、
近づく死期にじたばたしながら、
それを冷たく見据えている作家でもあったことを、
示している。
医薬も効なく、
最後に、あちこちの拝み屋や占い師に頼る作家の今井。
一日百六十五回北の方に向かって神さまの名を唱えると、
五日後に楽になるといわれて、
寝たきりで動けないから、
「北の方って、どうやるんだよ。
体を起こしてか、顔だけ向けてか」
と今井はまた教祖さまに電話で聞かせる。
なんべんも電話させられる看護人はしまいに怒った顔になる。
指を折って百六十五回数えるが、
どこかで間違って十くらいズレたような気が今井にはする。
このへんが何ともおかしい。
凄惨なおかしさである。
教祖さまは拝んでから五日目に痛みが消えると告げる。
五日目、今井は痛みが消えてないのを発見する。
その「五日目」は、
その日全体のことなのか、朝方なのか、
また痛みの消え方は突然なのか、ゆっくりなのか、
あるいはあくる日まで消え方がずれこむのか、
それを教祖さまに聞いて、確かめてほしいと、
看護人に哀願したりする。
このへんはすでに鬼気迫りながら、
ひきつるような笑いにさそわれる。
川上さんは神霊治療にまですがろうとする今井を見据え、
そのじたばたぶりをじっくりと書く。
つまり、自分で自分の終焉期を書いて逝ったのである。
実に骨太な、堂々たる作家である。
「人は死にゆく」ものであるけれど、
私はとてもこうはいかないと、
今更のように思った。
もう一つは、栄枯盛衰は世のならいだが、
これは権勢の消長だけではなくて、
女の美しさもそうだと思ったこと。
九月に、私の好きだったシモーヌ・シニョーレが死に、
夫のイヴ・モンタンは泣きながら赤いバラを棺に納めていたが、
このシモーヌ・シニョーレの晩年の写真を見て、
別人のように皺だらけだったのに、感慨を深くした。
マリリン・モンローは若死にしたから、
老いの変貌を人に見られることなく、
その点は幸せかもしれないが、
私たち世代は、
エリザベス・テーラーが輝くように美しかった、
十七、八のころから知ってるわけである。
ブリジット・バルドーも、
ミレーヌ・ドモンジョもみな美しかった。
去年(こぞ)の雪いまいずこ。
彼女らはいま、皺老女である。
美しさが夕焼け雲の移ろいよりはかなく消えるのに、
私は、人生の流れる顔の一瞬をとらえた気がした。
「他人事みたいに、いいはるんですなあ」
カモカのおっちゃんがいうから、
「いや、もちろん、私も含めて、でございます。
『人は死にゆく』『人は老いゆく』
これがじっくり肝にこたえたんです。
まあしかし、ブスやと、美女ほど老いが目立ちませんけど。
しかしエリザベス・テーラーの若かりし日を知ってると、
ため息が出るのはどうしようもない」
まあ、ローレン・バコールみたいに、
あんまり老いが目立たぬものもいるが、
美女の名を世界中にとどろかせた人の老いは、
感慨を強いるものである。