・兼家の浮気相手の女は、
一段と身分も劣ったように日記には書かれています。
相手の女が住んでいる町小路というのは、
今でいうと京都府庁のあるあたりでしょう。
今の京都市は平安京からみますと、
かなり東方に片寄っております。
昔はもっと西の方に中心があって、
京都市の千本通りという筋が昔の朱雀大路でして、
メインストリートです。
兼家という人は傍若無人な人です。
その女のところへ行くのに蜻蛉の家の前を、
大きな車の音を立てて行く。
その女が出産するといって、
都じゅう鳴り響くほど大騒ぎをして、
吉の方角の産屋へ連れて行く。
妻の蜻蛉としては堪えられません。
その頃は、死とか出産は重い汚れでした。
そんなことで蜻蛉が気をもんでいる所に、
表を通る人たちがうわさ話をしているのが聞こえました。
「この家は、
ほら、右大臣の師輔の三男坊の兼家が通っているらしいよ。
だけど、ここも、この頃は来ないと見えてしけた家になったなあ」
などと。
そうしているうちに姉妹のところへ通ってきていた男は、
気兼ねをしまして姉妹を自邸へ引き取ってしまいました。
父親が遠くに去り、姉妹も家を出て行き、
蜻蛉はますます淋しくなってしまいました。
一人淋しく幼い子を相手に日を送っています。
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・そのうちに町小路の女に子供が出来ました。
それが男の子だったと聞いて蜻蛉は腹が立ったんですけど、
しばらくしてその女は兼家に捨てられたらしいと、
うわさに聞きます。
その上、大騒ぎをして生んだ子も死んでしまった・・・
そして、その男の子はどうも兼家の子ではないらしい。
孫王、といいますから天皇の孫。
それも庶出の皇子の方がひそかに通って生ませた子でした。
まあ、夫というのはほんとにバカだわね!
という感じで日記に書いております。
何もかも手抜かりなくやっているようで、
女にだまされていたというのが、
兼家はかわいい男のように見えます。
本文によりますと、
「今ぞ胸はあきたる」
(ああ、胸がスッとしたわ!)
と、喜怒哀楽をそのまま書いています。
この時代では奔放でした。
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・そんなことがあって、
兼家は時姫のもとへよく通うらしく、
蜻蛉のもとへあまり来なくなりました。
町小路へ行かなくなった分、
自分のところへ来るかと思いましたが、
全くアテが外れてしまいました。
ですから、やっと夫が来ても、
かえってつんつんしてしまいます。
美人で歌もうまく、
「ぜひおいで下さい」という歌なのに、
行くと「何しにいらしたの?」みたいな顔をされる。
男たるもの戸惑います。
男の人は手紙とか便りなんてあまり喜びません。
手紙より、行った時にやさしくしてくれたら嬉しいみたいです。
もう一人の妻、時姫はそうだったのかもしれません。
もし、蜻蛉に女の子が生まれていれば、
兼家の待遇も違ったかもしれません。
女の子を後宮にあげ、皇子を生ませて後見するのが、
政治家の願望ですから。
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・蜻蛉は手仕事が大変上手だったようです。
兼家は滅多に寄り付かないのに、着物だけは寄こします。
「縫ってくれ」といって。
蜻蛉はムカッとするのです。
「町の女に縫わせればいいでしょ!」
と突っ返すのです。
案の定、兼家は縫ってくれるところがなくて、
大そう困って手分けして縫わせた。
(きっとうまくいかなかっただろう)
と蜻蛉は喜んで書いております。
そのうち、子供の道綱が片言が言えるようになりました。
片言というのが、「そのうち来るよ」と言うのです。
兼家が、「そのうち来るよ」と言って帰るものですから、
子供までおぼえてしまって可愛い声で言うと、
蜻蛉は大変辛く、腹立たしいことでした。
道綱は当時の公家の中では、
大変凡庸な男であったと言われています。
こんなに教養深い蜻蛉に出来た子供が、
蜻蛉があらゆることに愚痴ばかり言って聞かせたものですから、
変な男の子に育ちました。
兼家の子供たちの中でも、
特に出来の悪い子供になってしまったのです。
兼家との確執に悩んで、
蜻蛉がいつも泣いたり愚痴を言ったりするのを、
道綱一人が賢明になぐさめます。
「私はこれ以上耐えられないから尼になります」
蜻蛉が言いますと道綱も、
「そしたら僕もお坊さんになります」
と言います。
道綱はタカを可愛がっていました。
鷹狩りを好んでいたのです。
「あなたみたいに殺生する人はお坊さんになれないわよ」
と言いますと、
「いいよ、それなら」
と、あんなに可愛がっていたタカを放してしまう、
非常にやさしい子でした。
女だけの世界の中で、
お母さんが初めから終わりまで、
お父さんの愚痴ばかり聞かせるものですから、
男性社会を泳ぎ切れない弱気な性格になっていったのでしょう。
道綱は、
当時の才子、藤原実資に、
「一文不通の人」(字も知らぬ人)
などと冷評されています。
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