・夫の兼家にしても蜻蛉が嫌いではなく何度も訪れています。
それなのに、いつも割り切れない思いを抱いて帰って行きます。
夫が来ると一々、何かやりこめる形になってしまうので、
兼家も面白くないので、「明日も来るからね」と言って、
帰ったきりになり、半月、一ヵ月・・・そのままになってしまいます。
律儀な女からみれば地獄です。
女の人は「来るよ」と言われたら絶対来てほしい。
来ないのは最大の悪と思い込んでいます。
蜻蛉は非常に真面目です。
真面目というのは、
どうしても相手にそれを強制したくなります。
人に強制しなければ真面目もいいんですが、
それでは真面目になりませんから矛盾してしまいます。
兼家はそんなに歌人というわけではないのですが、
これだけ歌の才能のある蜻蛉に対抗して、
歌を返しております。
兼家一家は歌才に恵まれていました。
息子の道長も歌を作っております。
<この世をばわが世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば>
これは自分の思ってる通りをそのまま言ったら歌になった。
兼家の歌は、「なげきつつ・・・」という有名な蜻蛉の歌に返した、
<げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸も 遅くあくるはわびしかりけり>
です。
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・蜻蛉と兼家は、お互い、
「あなたがやさしくしてくれれば、私もやさしくなれるのよ」
「おれに悪いところはない」
という水掛け論のような心が休まる時のない、
夫婦関係で嘆き暮らしておりました。
ある時、蜻蛉は非常に長々しい長歌を書いて、
夫の目につくところに置いていました。
その中で夫を徹頭徹尾責めています。
(結婚したてのころ、父が娘をよろしくと言った時、
お任せ下さいと言って父を安心させたじゃありませんか)
兼家の方も読んで長歌で返事を書きました。
そちらの出方が悪いという風な歌です。
この歌のやりとり、
そもそも女は文字に定着するのが好きなのではないか。
男の人はあまり好きではない。
それでも兼家は何日間に一日は通って来ます。
いつの間にか十年近く経ちました。
962年ごろ、
兼家が三十四、五、蜻蛉は二十六、七、道綱が七、八つ。
その頃、夫が兵部大輔(ひょうぶたゆう)という職につきました。
ここは侍関係の役所なので中央からかけ離れおりまして、
「夫が不機嫌でうつうつしている」
と、日記に書いています。
そんな時代、兼家が出仕せず家でごろごろしているので、
蜻蛉は嬉しい。
夫の出世より側にいてくれた方が嬉しいと書いています。
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・蜻蛉という女性は今でいうヒステリーでした。
夫婦で言い争いをしている時、
目の前にあるものが見えなくなったと書いています。
それでも母が生きているうちは精神が安定していました。
母が重い病にかかり山寺に籠りました。
この時代、病気はお寺へ入って加持祈祷をしてもらう、
拝んでもらって病を治してもらうのが一般的でした。
蜻蛉は母の看病をするのですが、
秋のはじめ、母は亡くなります。
母がいるから強気で兼家とケンカしたりしていましたが、
その母が亡くなるとどうしていいかわからなくなりました。
またヒステリーが起きてしまいます。
「足手などただすくみにすくみて絶え入るやうにす」
蜻蛉が病人のようになります。
そのうち、母の死を兼家に知らせる人があって、
兼家がかけつけてくれました。
この時代、死と出産は重い汚れです。
蜻蛉のお父さんは年をとり、
蜻蛉は死にそうな顔で臥せっていますから、
兼家がお葬式の指図をします。
兼家は裕福な家の子ですから、
お坊さんのお布施も取り仕切ってくれました。
この時代、お坊さんへのお布施は大変なものです。
兼家は夫として頼もしい男です。
「その程のありさまも いとあはれに 心ざしあるやうに見えけり」
兼家がちゃんとしてくれたという所も、
日記では客観的に見ております。
兼家は蜻蛉をなぐさめて京へ連れ帰ろうとします。
蜻蛉は山寺で「喪」に籠っていました。
やっと一族そろって山寺を引きあげました。
そして四十九日の法事、
兼家と違って蜻蛉の兄弟に身分の高い人はいませんので、
みんなで朝から晩まで供養します。
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・この時代の住居は大そう広い家でした。
そこでたくさんの人が生活します。
プライベートな空間を作ろうとすれば、
屏風、几帳を立てて小部屋を作ります。
臨機応変の面白いものだったかもしれません。
しかし、ものすごく寒かったのじゃないか?
それに体に密着する衣服ではありません。
大きな着物ですから風が吹き通って寒かったんだろう、
と思います。
板の間ですし、寝る時は高貴な人は張台の中に、
今のタタミのようなものを敷いて寝ます。
中流貴族は板の間にうすべりを敷いて、
薄い敷き物の上に寝ます。
上にかぶるのは着ていた昼間の着物。
後世の布団というのはなかったので、
大変寒かっただろうと思われます。
あるいはその当時の人々は、
寒さに抵抗力があったのかもしれません。
みんなで亡き母の供養をして、
四十九日まではみんながいてくれましたので、
気分がまぎれましたが、
四十九日が過ぎてみな散ってしまうと淋しさはまさります。
でも、兼家はやさしくて傷心の蜻蛉をなぐさめるため、
たびたび通ってきてくれたと、嬉しそうに日記に書いております。
「かう 心細げなる思ひて ありしよりはしげう通ふ」
兼家は蜻蛉よりも一枚も二枚もうわての大人でした。
(次回へ)