・桜の名所というのは関西でも数多いが、
私は西宮の夙川堤、芦屋の芦屋川畔、
それに宝塚の「花の道」をあげたい。
夙川と芦屋川の春の眺めは私の喜びの一つである。
桜は水との取り合わせが殊によろしく、
川と桜がそろっているのが好もしい。
山の中や、寺社の境内の桜もよいが、
流れに沿って花吹雪の下を行く、という風情が好き。
芦屋は谷崎さんの「細雪」で有名であるが、
古いお邸町なので、精巧な工芸品のように町が磨きぬかれている。
私には息詰まる思いがして、
小説の舞台にしたい誘惑は感じられない。
芦屋の豪邸の辺りを散歩すると、不思議な気分に打たれる。
延々と続く塀、うっそうたる庭木、城砦のような巨大な邸、
そういう豪邸を作り、そこに住もうという発想自体に、
私は畏怖の念を持ってしまう。
それは、おふざけを許さない世界であり、
永遠を信ずる世界である。
私は永遠を信じていないし、
(世の中も、人の心も変わる。
親子夫婦友人の情けもいつかは変わる。
愛、というものを信じればこそ、永遠は信じられない)
私とは違う世界だと思う。
私は大豪邸の側を通ると、
(このお邸の人々は、毎日どんなものを食べてはるのかな?)
と思う。
食生活が貧しくてはアンバランスだから、
いつも美味しい食事があふれてる、というのを想像する。
私好みでいうと、大きな美しい家で、
ご馳走がいっぱいある以上、客好きであって欲しい。
またお出入りの人々も、その家の余禄をこうむって、
充分にうるおう、幸福のおすそ分けにあずかれる、
そういうお金持ちであれば、と想像するのだが、
その想像には根源的な矛盾がある。
そんな大盤振る舞いをやっていては、
お金持ちになれないのである。
しかし、なぜかこの町はある種の突っ張りがあり、肩がこる。
解放的な気分のないところが、神戸とは全く違う。
排他的なのかもしれない。
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・西宮は、妹夫婦が住んでいたり、働いていたりして、
私にはなじみのある町であった。
ここはえべっさんのお宮もあり、
広田神社や甲山大師もあって由緒のある町である。
満池谷墓地が広々と美しいので、小説に使ったことがある。
仏教の墓地は陰鬱な感じだが、クリスチャンのお墓が続く所は、
明るく緑が多く静かでいい。
今では市営墓地も珍しくなく、
仏教徒もクリスチャンと同じ形式の芝生墓苑にしたりして、
モダンになっている。
しかし、昭和三十年代に、
天空も土地も広々明るい墓地は珍しかった。
その頃、神戸の外人墓地が若者に愛好され、
散歩する人が増えたので、立ち入り禁止になったことがある。
まだ公園も整備されていなかったし、
若者にしてみれば、苔むして陰鬱な日本人墓地には魅力も関心もなかった。
特にお墓というのは、気味悪いところ、
怖いところ、悲しい場所、近寄りがたい場所、
用のない人はむやみに近づいてはいけない魔界、
というのが日本人の墓地に対する観念であった。
ところが外人墓地は明るくてモダンでエキゾチックで、
様相が違う。外人墓地でデートする若者が増えたのももっともなこと。
西宮の満池谷墓地もそうなっていたので、
私は気に入った。