「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

23、わが町の歳月 西宮・芦屋 ①

2022年02月11日 09時26分04秒 | 田辺聖子・エッセー集










・桜の名所というのは関西でも数多いが、
私は西宮の夙川堤、芦屋の芦屋川畔、
それに宝塚の「花の道」をあげたい。

夙川と芦屋川の春の眺めは私の喜びの一つである。
桜は水との取り合わせが殊によろしく、
川と桜がそろっているのが好もしい。

山の中や、寺社の境内の桜もよいが、
流れに沿って花吹雪の下を行く、という風情が好き。

芦屋は谷崎さんの「細雪」で有名であるが、
古いお邸町なので、精巧な工芸品のように町が磨きぬかれている。

私には息詰まる思いがして、
小説の舞台にしたい誘惑は感じられない。

芦屋の豪邸の辺りを散歩すると、不思議な気分に打たれる。
延々と続く塀、うっそうたる庭木、城砦のような巨大な邸、
そういう豪邸を作り、そこに住もうという発想自体に、
私は畏怖の念を持ってしまう。

それは、おふざけを許さない世界であり、
永遠を信ずる世界である。

私は永遠を信じていないし、
(世の中も、人の心も変わる。
親子夫婦友人の情けもいつかは変わる。
愛、というものを信じればこそ、永遠は信じられない)
私とは違う世界だと思う。

私は大豪邸の側を通ると、
(このお邸の人々は、毎日どんなものを食べてはるのかな?)
と思う。

食生活が貧しくてはアンバランスだから、
いつも美味しい食事があふれてる、というのを想像する。

私好みでいうと、大きな美しい家で、
ご馳走がいっぱいある以上、客好きであって欲しい。

またお出入りの人々も、その家の余禄をこうむって、
充分にうるおう、幸福のおすそ分けにあずかれる、
そういうお金持ちであれば、と想像するのだが、
その想像には根源的な矛盾がある。

そんな大盤振る舞いをやっていては、
お金持ちになれないのである。

しかし、なぜかこの町はある種の突っ張りがあり、肩がこる。
解放的な気分のないところが、神戸とは全く違う。
排他的なのかもしれない。


~~~


・西宮は、妹夫婦が住んでいたり、働いていたりして、
私にはなじみのある町であった。

ここはえべっさんのお宮もあり、
広田神社や甲山大師もあって由緒のある町である。

満池谷墓地が広々と美しいので、小説に使ったことがある。
仏教の墓地は陰鬱な感じだが、クリスチャンのお墓が続く所は、
明るく緑が多く静かでいい。

今では市営墓地も珍しくなく、
仏教徒もクリスチャンと同じ形式の芝生墓苑にしたりして、
モダンになっている。

しかし、昭和三十年代に、
天空も土地も広々明るい墓地は珍しかった。

その頃、神戸の外人墓地が若者に愛好され、
散歩する人が増えたので、立ち入り禁止になったことがある。

まだ公園も整備されていなかったし、
若者にしてみれば、苔むして陰鬱な日本人墓地には魅力も関心もなかった。

特にお墓というのは、気味悪いところ、
怖いところ、悲しい場所、近寄りがたい場所、
用のない人はむやみに近づいてはいけない魔界、
というのが日本人の墓地に対する観念であった。

ところが外人墓地は明るくてモダンでエキゾチックで、
様相が違う。外人墓地でデートする若者が増えたのももっともなこと。

西宮の満池谷墓地もそうなっていたので、
私は気に入った。






          

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