「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

7、早蕨(さわらび) ①

2024年05月22日 08時43分51秒 | 「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳










・宇治の山里にも春が来た。

今まで過ごして来た日々を、
中の君は夢のように思う。

四季折々、
姉君と世の心細さ辛さを、
慰め合ってきたのに、
もう姉君はいない。

「ひとりぼっちになってしまった。
お父さまが亡くなられたときも、
悲しかったけれど、
それでもお姉さまと悲しみを、
分けあうことが出来た。
でも、今は一人・・・」

そう思うとひとしお、
亡きひとが恋しかった。

山の阿闍梨から手紙が来た。

「年も改まりましたが、
いかがお過ごしですか。
今は姫君お一方のお身の上だけが、
心配で、心こめて念じております」

とあって、
蕨や土筆など籠に入れ、

「これは寺の童たちが摘んでくれた、
お初穂でございます」

と、歌も添えてある。

<君にとてあまたの春を摘みしかば
常を忘れぬ初わらびなり>

中の君は涙ぐまれて、
歌を返した。

<この春はたれにか見せむ亡き人の
かたみに摘める峰のさわらび>

その中の君を、
匂宮はいよいよ恋しく、
思われていた。

こちらから、
宇治へ行けないとなれば、
あのひとを京へ呼ぼう、
と決心なさる。

何かとあわただしい頃を過ごして、
薫は匂宮のもとへ参上した。

さまざまの物思いを、
宮でなくては訴える人もいない。

二人は幼なじみである上に、
宇治の恋を共有している。

宇治の川霧のあわれ、
山里に住む美しい恋人たち、
悲しい恋の結末。

その風趣をわかってもらえるのは、
宮しかいらっしゃらない。

「あれからも、
君は宇治と連絡を絶やさぬようだが、
うわべは色にも出さず、
実は中の君に心を寄せている、
ということはないかね?」

「それは、
いいがかりというものです」

仲のよい青年貴公子は、
冗談をいって笑いあう。

夜になって烈しく吹き出した風は、
まだ冬めいて寒かった。

灯も時々消えて、
お互いの顔も見えぬ、
心もとなさはあるが、
薫は話を打ち切る気になれず、
尽きぬ話に夜は更け行く。

「まさか、
きみが大君と清い仲でいたなんて」

宮は今さらのように驚かれる。

「信じられない・・・
いくらなんだってそんなこと。
きみ、
まだ隠していることがあるんだろう」

宮のご気性から、
そう思われるのも無理はないが、
さすがに宮のご反応は、
いちいち適切で、
薫の胸も晴れるばかり。

「考えてみれば、
あのひととそんなに心が結ばれた、
というのはみごとな恋の完結では。
きみ、
たぐいない恋に恵まれたのだよ」

と薫を元気づけるようなことを、
いって下さるのであった。

薫はつい心をときほぐされ、
胸一つに収めがたかった悲しみも、
晴れる思いがした。

宮のほうは、
近々のうちに中の君を、
京へ迎え取る準備について、
ご相談なさる。

「嬉しいことでございます」

薫はいった。

「私も責任がございます。
大君は妹君を、
不幸にしたのではないかと、
案じて亡くなったのですから・・・
あのひとのゆかりとして、
今は中の君一人となりました。
私はあのひとの心を汲んで、
中の君のお世話をしたい、
と思っております。
大君は死のまぎわまで、
くれぐれもあの子を頼む、
と托されました。
大君は自分と同様に思ってほしい、
と私に中の君をすすめたのです」

「すると君は、
もしかして中の君と、
結婚したかもしれなかったんだね?」

「いや、
私としては、
その気は全くありませんでした。
大君いちずでございました」

その頃はそうであったが、
今はどうなんだ?

中の君と一夜を共に過ごしたことは、
さすがに宮には打ち明けていない。

大君がそう望み、
そう計らって薫は中の君と、
会うことになったが、
潔癖な薫の気性と、
大君への愛から、
中の君には指も触れなかった。

今にして思えば、
静かな悔恨が胸を噛む。

忘れる間もない、
恋しい大君の形見として、
中の君を愛し、
京へ迎えるのが自分であっても、
よかった・・・

が、すべてはもう遅い。

忘れよう。

中の君は、
恋してはならないひとになった。

あるまじき恋慕の心を起こせば、
誰にとっても、
よくないことになろう。

(自分は単なる後見人として、
中の君をお世話しよう。
自分の他には頼れる身内は、
いないのだから)

薫はそう決心する。






          


(次回へ)

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