・私はこの間、五十五になった。
いつもトシのことは忘れているが、
こんどは、なぜか、区切りのいいこのトシが気に入り、
(五十のぞろ目ですよ)とみなに触れまわって、
面白がりたい気がある。
ちょっと春めいてきたので、
私は、赤い靴をはき、赤いポシェットを肩からななめにかけ、
ミッキーマウスの腕時計の、赤いビニールバンドのついたのを、
腕にはめて、町へ出てみる。
この時計は一時間ごとに「ピッ」と鳴るので、
音楽会や観劇のときにはめるのは不向きである。
宝塚なんかでも、
レビューのときはいいけれど、
ドラマ、場内、シーンとしているときはいけない。
しかし町あるきのときは使う。
私はアクセサリーを万遍なく使ってやりたい気がある。
ただ、使い忘れ、ということがある。
それで忘れないように、
四面ガラス張りのショーケースを買ってきて、
いろんなものを並べ、使わなくとも目で挨拶を、
送れるようにしてある。
宝石にキズがつきますよ、
と注意してくれる人もあったが、
箱に納めてしまうと忘れてしまい、
私とその宝石は縁が切れてしまう。
縁あって私の身辺に寄ってきてくれたのだから、
その部屋へいけば、
(おはよう)(こんにちは)(元気ですか)
と挨拶できるように出しておいてやったほうがいい。
ケースは三段になっていて、
その棚もガラスだからみな見透かせて便利である。
ブローチなど買ってあるのを忘れることが多く、
以前、私は額にビロードの布を張って、
そこへ一面に留め、壁にかけてインテリアともし、
要るときに外して使うということもしてみた。
また壁掛けのようにカーテンにくっつけたりしたが、
何しろ埃をかぶってしまう。
汚したくない品は、
ガラスケースにかぎるようである。
そんなわけで、
平生、使わないミッキーマウスの腕時計なんかはめ、
町へ出ると(むはははは)と笑えてくる。
(五十五だあ。
よくも生きたもんだなあ。
ツイてたなあ)と思う。
ツイていたのは、
超越者の手はず違いか、
お慈悲のせいである。
町は春・夏ものを売ろうというので、
明るいブルーや、白やピンク、グリーンといった色が、
氾濫している。
そしてまた、現代ではないものはない、
電車、バスは四通発達し、食べ物はあふれるばかり、
これは長い長い夢を見てるんじゃないか、
と私は思う。
こんなに何でもある時代に生きて、
生きのびたことに、むはははは、と笑えてくるのだが、
その私のうしろには、
何だかいつもくっついているものがあり、
(いつかまた、
昔みたいにこの町が瓦礫の廃墟になるかもしれないぞ)
という思いとうらはらになっている。
だから私の(むはははは)には、
複雑で入りくんだ色合いがあるのだ。
この前、英語の勉強会で、先生に、
「オキナワ」という語を示され、
この語を使って何かしゃべりなさいと当てられた。
熟慮しているひまはない。
「私はオキナワへ行くのは好きでない」
と、わたしはつかえつかえ、答える。
「何とならば非常に哀しい思い出のため」
さ~、私の英語力ではあとが出てこない。
「え~と、メニーピープルズ・・・
メニー、メニー、ボーイズ、アンド、
メニー、メニー、ガールズ、ダイド、
あの~ですね、私とセイム・ジェネレーション・・・」
アメリカ人の先生は、
「フムフム」とあたまをかしげていられたが、
こういう咄嗟のとき、人間の本音は出てくるものである。
まさか「オキナワ」なんて出てくると思わなかった。
先生の発音を漠然と聞いているのが好きというだけで、
月一のおたのしみといった「お勉強」なのだ。
のんびりと楽しんでいる最中、
とつぜん「オキナワ」が出て来て、
周章狼狽のあまり、ふだん口にしたこともないことを、
つい洩らしてしまう。
そんな具合に、
私のうしろにはいつもピターッと貼りついている影があり、
現代の繁栄は虚構の幻影かもしれないと、
その影は私にささやいている。
そしてその上で、
終戦後の窮乏生活を味わった庶民としては、
生きのびてぜいたくの味も知ったことを、
(むはははは)と笑わずにはいられないのである。
会心の笑み、というヤツ。
焼夷弾の雨あられ、
爆弾の直撃を避けながら走って逃げて、
わが家の焼け跡のまだ熱い土を掘り返して、
焼け残った皿や茶碗を拾ったっけ・・・
火照りが冷めるまで待っていると、
ほかの人に奪われるからだった。
(次回へ)