むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

12、むはは・・五十五 ①

2022年07月30日 08時43分32秒 | 田辺聖子・エッセー集










・私はこの間、五十五になった。

いつもトシのことは忘れているが、
こんどは、なぜか、区切りのいいこのトシが気に入り、
(五十のぞろ目ですよ)とみなに触れまわって、
面白がりたい気がある。

ちょっと春めいてきたので、
私は、赤い靴をはき、赤いポシェットを肩からななめにかけ、
ミッキーマウスの腕時計の、赤いビニールバンドのついたのを、
腕にはめて、町へ出てみる。

この時計は一時間ごとに「ピッ」と鳴るので、
音楽会や観劇のときにはめるのは不向きである。

宝塚なんかでも、
レビューのときはいいけれど、
ドラマ、場内、シーンとしているときはいけない。

しかし町あるきのときは使う。

私はアクセサリーを万遍なく使ってやりたい気がある。
ただ、使い忘れ、ということがある。

それで忘れないように、
四面ガラス張りのショーケースを買ってきて、
いろんなものを並べ、使わなくとも目で挨拶を、
送れるようにしてある。

宝石にキズがつきますよ、
と注意してくれる人もあったが、
箱に納めてしまうと忘れてしまい、
私とその宝石は縁が切れてしまう。

縁あって私の身辺に寄ってきてくれたのだから、
その部屋へいけば、
(おはよう)(こんにちは)(元気ですか)
と挨拶できるように出しておいてやったほうがいい。

ケースは三段になっていて、
その棚もガラスだからみな見透かせて便利である。

ブローチなど買ってあるのを忘れることが多く、
以前、私は額にビロードの布を張って、
そこへ一面に留め、壁にかけてインテリアともし、
要るときに外して使うということもしてみた。

また壁掛けのようにカーテンにくっつけたりしたが、
何しろ埃をかぶってしまう。

汚したくない品は、
ガラスケースにかぎるようである。

そんなわけで、
平生、使わないミッキーマウスの腕時計なんかはめ、
町へ出ると(むはははは)と笑えてくる。

(五十五だあ。
よくも生きたもんだなあ。
ツイてたなあ)と思う。

ツイていたのは、
超越者の手はず違いか、
お慈悲のせいである。

町は春・夏ものを売ろうというので、
明るいブルーや、白やピンク、グリーンといった色が、
氾濫している。

そしてまた、現代ではないものはない、
電車、バスは四通発達し、食べ物はあふれるばかり、
これは長い長い夢を見てるんじゃないか、
と私は思う。

こんなに何でもある時代に生きて、
生きのびたことに、むはははは、と笑えてくるのだが、
その私のうしろには、
何だかいつもくっついているものがあり、

(いつかまた、
昔みたいにこの町が瓦礫の廃墟になるかもしれないぞ)

という思いとうらはらになっている。

だから私の(むはははは)には、
複雑で入りくんだ色合いがあるのだ。

この前、英語の勉強会で、先生に、

「オキナワ」という語を示され、
この語を使って何かしゃべりなさいと当てられた。

熟慮しているひまはない。

「私はオキナワへ行くのは好きでない」

と、わたしはつかえつかえ、答える。

「何とならば非常に哀しい思い出のため」

さ~、私の英語力ではあとが出てこない。

「え~と、メニーピープルズ・・・
メニー、メニー、ボーイズ、アンド、
メニー、メニー、ガールズ、ダイド、
あの~ですね、私とセイム・ジェネレーション・・・」

アメリカ人の先生は、
「フムフム」とあたまをかしげていられたが、
こういう咄嗟のとき、人間の本音は出てくるものである。

まさか「オキナワ」なんて出てくると思わなかった。

先生の発音を漠然と聞いているのが好きというだけで、
月一のおたのしみといった「お勉強」なのだ。

のんびりと楽しんでいる最中、
とつぜん「オキナワ」が出て来て、
周章狼狽のあまり、ふだん口にしたこともないことを、
つい洩らしてしまう。

そんな具合に、
私のうしろにはいつもピターッと貼りついている影があり、
現代の繁栄は虚構の幻影かもしれないと、
その影は私にささやいている。

そしてその上で、
終戦後の窮乏生活を味わった庶民としては、
生きのびてぜいたくの味も知ったことを、
(むはははは)と笑わずにはいられないのである。

会心の笑み、というヤツ。

焼夷弾の雨あられ、
爆弾の直撃を避けながら走って逃げて、
わが家の焼け跡のまだ熱い土を掘り返して、
焼け残った皿や茶碗を拾ったっけ・・・

火照りが冷めるまで待っていると、
ほかの人に奪われるからだった。






          


(次回へ)

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