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・弁と約束した日の早朝、
薫は気ごころのしれた部下一人、
それに世間に顔を知られていない、
牛飼いを選び、
牛車を宇治へやらせた
世間の目をくらますため
弁はおっくうであったが、
約束したことではあり、
身支度をして迎えの車に乗った
日暮れに車は、
目当ての邸に着いた
閑散として人の出入りもない、
車を門内に入れさせ、
こういう者が参りましたと、
連れてきた案内の男にいわせると、
かつて初瀬参りのお供をした、
見覚えのある女房が出てきて、
弁を車からおろした
浮舟は思いがけぬ弁の訪問を、
喜んだ
むさくるしい小家で、
物思いがちなところへ、
昔語りをしてくれそうな人が、
訪れたのだから、
それに亡き父宮のおそば近くに、
仕えた人だと思うと、
よけい親しみが感じられた
弁はいう
「ご覧の通りの尼姿になって、
この世を捨てた身でございます
中の君さまのお邸へも、
参上いたしませんのに、
今夜、ここへ突然伺いましたのは、
薫大将さまが熱心にお頼みに、
なったからでございます」
そうして薫の気持ちを伝えた
宵を少し過ぎた頃、
門を叩く音がする
「宇治から使いが参りました」
女房が不審がっていると、
「尼君にお目にかかりたい」
と薫の宇治の荘園の、
支配人の名をいった
弁は戸口ににじり寄る
雨は降りそそぎ、
風は冷たく吹きいる
それにつれて、
えならぬ香りがただよう
小さい邸に、
女たちのどよめきが走った
薫の訪れと知って、
みな心ときめかせた
何の支度もない、
むさくるしい家に、
予想もしなかった薫の出現、
誰もみなまごついて、
途方にくれてしまった
「抑えきれぬ胸の思いを、
聞いて頂こうと思ったのです」
薫は弁を通じていわせる
浮舟はどう返事をしていいか、
分からない
乳母が見かねて知恵をつけた
「せっかく、
おいでになりましたものを、
お上げせずお帰し申すわけにも、
いきますまい
こっそりご本邸の、
母君さまにご連絡しましょう
ほんのお近くですから」
弁は制した
「そんな子供っぽいことを、
なさらなくても、
お若い方同士がお話なさったとて、
取り返しのつかないことになるって、
ものでもございません」
などといっているうち、
雨がひどくなって空は暗くなった
宿直人の耳なれぬ、
東国訛りの者が夜回りしながら、
「家の東南の隅の垣が、
崩れているのが危ない
ここにあるお客の車、
門に入れるなら早く入れて、
門の戸締りをしてくださいよ
お供ときたら、
全く気が利かないんだから」
などというのも、
薫をむくつけき心地にさせる
「『佐野のわたりに家もあらなくに』
というところだな」
薫は口ずさんで、
簀子縁の端にいた
「<さしとむるむぐらやしげき
東屋のあまりほどふる
雨そそきかな>
むぐらが繁って、
戸口を閉ざしているというのかね
あまりに長いこと、
待たせるじゃないか
すっかり軒の雨だれに、
濡れそぼってしまったよ」
薫の頭には、
催馬楽の「東屋」のうたが浮かぶ
「東屋の
真屋のあまりの
その雨そそき
われ立ち濡れぬ
殿戸ひらかせ
かすがひも
とざしもあらばこそ
その殿戸
われ鎖さめ
おし開いて来ませ
われや人妻」
雨のしずくをうち払う追風は、
薫り高く、無骨な東の里人である、
宿直人を驚かせた
浮舟の乳母は、
薫を拒む口実がなく、
南の廂に席を用意して、
招き入れた
浮舟が会おうとしないのを、
女房たちが押し出した
遣戸を立てて、
ほんの少し開けてある
「こんな戸の前に坐らされる、
なんてはじめてです」
薫は恨む
乳母たちは咎めたのであろう、
誰とも知れぬ手が、
かけ金を外し母屋の奥へと、
薫をいざなう
浮舟は、
近づく運命そのもののように、
男の姿に身を固くした
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(次回へ)