むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

13、カンボジアに何が ④

2022年08月05日 08時39分31秒 | 田辺聖子・エッセー集










・1970年にロン・ノル将軍がアメリカに後押しされて、
クーデターを起こす。

シアヌーク殿下執政の後期は、
軍人も官僚も上下あげての汚職腐敗がすすみ、
それに殿下の左寄り中立政策も破綻しはじめ、
民心は離れかけていた。

ロン・ノルのクーデターで、青年やインテリは、
やっと正義の時代が来た、と期待した。

しかしこれまた、前時代のつづきに過ぎず、
リベラルの夢は消え、汚職だけが残った。

おまけにもっと悪いことに、
カンボジア国内の共産党集結地域を、
アメリカと南ベトナム軍は侵攻しはじめた。

空爆がはじまった。

ついにインドシナで唯一奇蹟の平和を保っていた、
カンボジアも戦火にまきこまれることになる。

農村は爆撃され、米も作れなくなる。

シアヌーク殿下は外遊中にクーデターで追われたので、
北京へ飛んで亡命政権「カンプチア王国民族連合政府」
を作った。

そうしてカンボジアの山岳地帯で、
アメリカ軍やベトナム軍に抗戦していた共産ゲリラ、
「赤色クメール(クメール・ルージュ)」と手を結んだ。

クメール・ルージュを軍事的に援助したのは、
むろん中国である。

シアヌーク殿下は、
この時点ではクメール・ルージュを援助できれば、
という思惑だった。

彼らの持つ理念や革命方式については、
何も知らなかった。

いや、カンボジア中の人が、そうだったろう。

共産ゲリラは、ロン・ノル政府軍と交戦し、
プノンペンに迫りつつあった。

1975年の年があけて、
クメール・ルージュの攻撃はいちだんと烈しくなる。

三月にはプノンペンの日本大使館も全員引きあげる。

内藤泰子さんはそのとき旅券を取りに行き、
館員に、早く引きあげるようにと、
強くいわれる。

しかし、内藤さんはカンボジア人の夫と息子たちと共に、
プノンペンにとどまる道を選ぶ。

もと外交官の夫ソー・タンラン氏と共に、
ソ連にもポーランドにもいたから、
共産圏への理解は持っていた。

タンラン氏はプノンペンが共産軍の手に落ちても、
混乱はしばらくの間で、すぐおさまると読んでいた。

4月17日にプノンペンは陥ち、
ロン・ノル政権の「クメール共和国」は崩壊する。

革命軍は静かに町に入ってきた。

クワイ(カラス)と呼ばれる黒ずくめ服の共産軍で、
14・5歳の少年兵だったと、
内藤さんはいう。

「よかった、戦争はやっと、これで終わる」

人々は拍手して歓迎した。

しかしその喜びとおまつり騒ぎは、
何時間と続かなかった。

黒服の少年兵たちはニコリともせず、
けわしい顔で、

「武器を家の外に出せ」と命じ、
「すぐ町を出ていけ」と追い立てた。

「ぐずぐずするな。早くしろ!」

彼らは空へ向けて自動小銃を発射する。

プノンペン市民はあわてふためき、
当座のものを手にして追われてゆく。

病院からは手術したばかりの患者が、
陣痛のはじまった妊婦が追い出された。

もちろん私は1975年4月17日の、
プノンペン大混乱の場に居合わせたわけではないので、
その場の状況は、本によって再構成されなければならない。

ポル・ポト革命軍の占領による混乱は、
それまでの世界史に類をみない特異なものだった。

この血と秘密で隈どられたポル・ポト、イエン・サリ一派の、
実情についてはまだ解明されていない部分が多い。

ともあれ、事実は歪曲できないのだから、
内藤さんの手記や、各国ジャーナリストの報道、
のちに1979年8月、ポル・ポト政権崩壊後、
プノンペンで開かれたポル・ポト一味の大虐殺を裁く、
人民法廷で行われた多数の体験者の証言で、
悪夢のあとをたどってみよう。






          


(次回へ)

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