・1970年にロン・ノル将軍がアメリカに後押しされて、
クーデターを起こす。
シアヌーク殿下執政の後期は、
軍人も官僚も上下あげての汚職腐敗がすすみ、
それに殿下の左寄り中立政策も破綻しはじめ、
民心は離れかけていた。
ロン・ノルのクーデターで、青年やインテリは、
やっと正義の時代が来た、と期待した。
しかしこれまた、前時代のつづきに過ぎず、
リベラルの夢は消え、汚職だけが残った。
おまけにもっと悪いことに、
カンボジア国内の共産党集結地域を、
アメリカと南ベトナム軍は侵攻しはじめた。
空爆がはじまった。
ついにインドシナで唯一奇蹟の平和を保っていた、
カンボジアも戦火にまきこまれることになる。
農村は爆撃され、米も作れなくなる。
シアヌーク殿下は外遊中にクーデターで追われたので、
北京へ飛んで亡命政権「カンプチア王国民族連合政府」
を作った。
そうしてカンボジアの山岳地帯で、
アメリカ軍やベトナム軍に抗戦していた共産ゲリラ、
「赤色クメール(クメール・ルージュ)」と手を結んだ。
クメール・ルージュを軍事的に援助したのは、
むろん中国である。
シアヌーク殿下は、
この時点ではクメール・ルージュを援助できれば、
という思惑だった。
彼らの持つ理念や革命方式については、
何も知らなかった。
いや、カンボジア中の人が、そうだったろう。
共産ゲリラは、ロン・ノル政府軍と交戦し、
プノンペンに迫りつつあった。
1975年の年があけて、
クメール・ルージュの攻撃はいちだんと烈しくなる。
三月にはプノンペンの日本大使館も全員引きあげる。
内藤泰子さんはそのとき旅券を取りに行き、
館員に、早く引きあげるようにと、
強くいわれる。
しかし、内藤さんはカンボジア人の夫と息子たちと共に、
プノンペンにとどまる道を選ぶ。
もと外交官の夫ソー・タンラン氏と共に、
ソ連にもポーランドにもいたから、
共産圏への理解は持っていた。
タンラン氏はプノンペンが共産軍の手に落ちても、
混乱はしばらくの間で、すぐおさまると読んでいた。
4月17日にプノンペンは陥ち、
ロン・ノル政権の「クメール共和国」は崩壊する。
革命軍は静かに町に入ってきた。
クワイ(カラス)と呼ばれる黒ずくめ服の共産軍で、
14・5歳の少年兵だったと、
内藤さんはいう。
「よかった、戦争はやっと、これで終わる」
人々は拍手して歓迎した。
しかしその喜びとおまつり騒ぎは、
何時間と続かなかった。
黒服の少年兵たちはニコリともせず、
けわしい顔で、
「武器を家の外に出せ」と命じ、
「すぐ町を出ていけ」と追い立てた。
「ぐずぐずするな。早くしろ!」
彼らは空へ向けて自動小銃を発射する。
プノンペン市民はあわてふためき、
当座のものを手にして追われてゆく。
病院からは手術したばかりの患者が、
陣痛のはじまった妊婦が追い出された。
もちろん私は1975年4月17日の、
プノンペン大混乱の場に居合わせたわけではないので、
その場の状況は、本によって再構成されなければならない。
ポル・ポト革命軍の占領による混乱は、
それまでの世界史に類をみない特異なものだった。
この血と秘密で隈どられたポル・ポト、イエン・サリ一派の、
実情についてはまだ解明されていない部分が多い。
ともあれ、事実は歪曲できないのだから、
内藤さんの手記や、各国ジャーナリストの報道、
のちに1979年8月、ポル・ポト政権崩壊後、
プノンペンで開かれたポル・ポト一味の大虐殺を裁く、
人民法廷で行われた多数の体験者の証言で、
悪夢のあとをたどってみよう。
(次回へ)