今日、KBIでの全ての聴講が終わった。
最終日は大田先生の「KBI 神学Ⅲ」
あらゆる自分への戒めや、神さまとの葛藤を乗り越えた聖人たち。
大田先生の熱い講義を聴いていて、
「あぁ、これでもうここで受講することはないのだ」と思うと涙が出て、
もっと学びたい、もっと知りたいと心が叫んでいた。
大田伯子先生の笑顔を見ては、寂しさに涙が出て、
昼食を本科生たちと一緒に食べて、同じようにセルフで後片付けをした。
彼らの多くは、これからもここで引き続き生活をして、
お互いに様々な作業や奉仕をしながら助け合い、
神さまの方向だけを向いて、祈り、恵を受け、信仰に必要な学びを受けていく。
そう、それが妬ましいほど「うらやましい」のだ。
私は3年間教職コースに最初から通って、牧師になりたいとは思っていない。
ただ、1年間でもこの生活を経験することで自分は成長するだろうし、
その間、この年になって新しいことを「学ぶ」という素晴らしい恩恵に与れるとしたら、
なんと有意義なことだろうと思う。
そしてそれはなんと贅沢なことだろうとも思う。
「召し」はあるのか?
私の答えはNOかもしれない。
ただ、あの場所で多くの年齢の学生と揉まれて、
この信仰が深まり、そのことを教会の奉仕で神さまにお返しが出来たら、
どんなに充実した日々を暮らせるかと思う。
神さまが私たちのために命を投げ出して下さったことに対して、
私たちは仕事も、安定した生活も、自分の自我も、都合も、
全てをお返ししてもまだ足りない。
この聴講で一番心に残ったことは、大田先生が言われた。
「自分のたった一度の人生だ、死ぬ前に悔やみたくない。」
そう思って、先生は宣教の道に人生を捧げられた。
私は先生のようには出来ないかもしれないけれど、
私も「悔やみたくない」のだ。
毎日、恵を受けたい。神さまを賛美して礼拝を捧げたい。
未開の地に住む民族のために祈りたい。
そのための導きを先生方からもらいたい。
そして最後には私にも「召命」があるのか、確かなものかどうか確信したい。
そのために、まずは飛び込んでみたい。
これは今日からの私の重荷だ。
神さまのためだけに、自分を使えるのか。
ただ、祈って神さまのお応えを待つ。
くぅ