今日で今年も終わり。
早かったのか長かったのか?
去年の9月末に会社を辞めて(辞めさせられて?)、
今年は復活と思っていたけど、
とうとう病気が突き抜けて治ることはなく、
1年間、何も出来ずに毎日を過ごしてしまった気がする。
その一日一日は何かしら努力して、
明日はよりよい一日になるようにと思っていたけど、
終わってみるとその一つずつの小さな努力は
大きな波に消されてしまったかのようだ。
今年読んで一番良かった本は、中島梓さんの「転移」
こんな風に日常が流れて死を迎えるのが、
本当に普通の日々なんだなと思わされた。
海外旅行でもなく、買い物三昧でもなく・・・・普通の日々。
その次に良かったのは「葉っぱのフレディ」
怖くなんかないよ・・・次のいのちを生んでいくんだよ・・・
秋からこちらの時期はとにかく日野原先生の本を読んでいた。
身体的には一番良かったことは睡眠が改善されたこと。
リボトリールのおかげで寝付きも良く、悪夢も減って、
朝までしっかりと寝ることが出来るようになった。
それでも改善されなかったことの方が多い。
まだまだ疲れやすい。
一日のエネルギーが十分でない。
息が苦しくなる。動悸がする。
過呼吸になるかもしれないと不安になる。
来年これらの症状を徐々に治していけたら、
望んでいる教会の奉仕もできるだろう。
そして仕事に就きたい。
働くことは嫌いではない。
どんな小さな仕事でも何かのため人のためになるのだから。
働きたい!
そのための体力と気力が欲しい。
それでも自分を追い込まないで来年も流れに任せよう。
神さまがタイミングを計ってくださる。
神さまがよかれと思う時期に・・・。
くぅ
今日はさめざめと冷たい雨が降っていた。
本降りにならないうちに、
ちゃだと一緒にCoopへお買いもの。
この前までジングルベルが鳴っていて、
ケーキやチキンが売られていてクリスマスだったのに、
今日のBGMはお琴の「春の海」
(それしかないんか・・・・?)
入り口にはしめ縄やお鏡餅が売られていて、
ごまめだのごぼうだの・・・一気に年が明けてしまったかのようだ。
我が家は二人なので大したおせちもなく、
お雑煮の白味噌と具材だけ買っておしまい。
掃除もいつもと変わりなく、特別なことはない。
ただ、昨日トイレでブルーレットがこぼれて、
床が青々になってしまったので、
夜になって時ならぬ大掃除が行われたけど・・・。
スチームで拭くと綺麗になりました。
明日は大晦日。
教会へ行く予定。
初めての教会での年越しはどんな感じだろう。
ちょっと楽しみ!
くぅ
日曜日から今日まで、気付かされることあり。
自分で自分を蔑んで自己嫌悪に陥っていた。
反省することもあり。
私は今できることを精一杯やっていると思う。
決められたことを守っていけてはいないのは事実だけど、
それは恥ずかしいことではないとも思う。
心や身体の全てで神さまを求め、
しっかりと自分の足で大地に立ち、
この信仰に根を生やしたいと思っている。
出来るなら決められたことを聖書が教えるように、
私も胸を張って行いたいと思う。
そんな日が来ることを神さまに祈ろう。
いつかは神さまのおっしゃることができるように・・・。
くぅ
今日はとてもいいお天気で、リビングは温室のようになっている。
温かくて気持ちがいい。
2日前に治療してもらった歯の調子が良くなく、
歯医者さんに電話すると、
今日から休診にもかかわらず診てくださった。
薬を入れ替えてもらったので少しマシになるだろうか?
でもこれでちょっとは安心して年末年始を過ごせる。
その後、ちゃだと一緒にドラッグストアとスーパーに行った。
スーパーでは年始の花飾りやお供え餅が売られていて、
たくさん買い込んでいる人たちでいっぱいだった。
我々は普通の買い物・・・・。
明日は季節外れの「夏野菜カレー」
そんなに特別に買い込むものもない。
大掃除もそんなに汚れているところはなく、
日頃の掃除くらいで済みそうだし・・・。
ゆっくりした年末年始になりそうだ。
くぅ
親友が年末のワークショップで奉仕中。
彼女のブログは晴れやかで清々しい。
一部、引用させていただく。
「今日は関西年末ワークショップ二日目。
私は今日からの参加で、ボーカルクラスを担当。
晴れやかだ・・・。
すばらしい場所だ・・・。
てんごくみたい。
みんなが祝福しあって、
ほほえみあっていて、
声をかけあっていて。
愛し合っていることが、なんでもない空気の中にあって。
いいな、このくうき、ほんとうに、いいな。」
・・・と彼女は書いている。
それが神さまの愛の力だと私は思う。
反対に、私はというと、まだ心の中に穴が空いた状態だ。
この秋くらいから徐々に教会に行けるようになって、
なんとか1時間半の礼拝中も落ち着いて座っていられるようになって、
クリスマスの聖歌隊の奉仕にも参加できて、
本当に神さまに近づいて心から嬉しく思っていた。
なのに一昨日のたった何十分かの説教メッセージで、
打ち砕かれた信仰心。
築きあげてきた深い思いが、
一瞬にしてガラガラと音を立てて崩れ落ちたのだ。
私は献金が少ないから恵まれないのだ。
5年にわたるこの病気が奇蹟のように治らないのは、
十一献金にほど遠い砂粒のような額しか捧げていないからだ。
そう何度も心に響いてくる呪われた声。
自分に少し苦しいと思われる額の献金?
捧げれば恵みが多い?
お金の額=神さまの愛なのか!!!!
いったい何なんだ・・・・。
キリスト教の教会の門戸は、貧しいものにも富めるものにも
平等に誰にでも開かれ、
ただ主を信じることでのみ救われるのではなかったか?
マザーテレサが貧困層の人たちから献金を期待して
愛や恵みを与えていただろうか?
なぜこうまで、礼拝の福音が語られるメッセージにおいて、
おおっぴらに、正式に、十一献金が奨励され、
マラキ書を引き合いに出して「のろわれる」とまで言われなければならないのか?
講壇に立つものにとって、言葉の重み、
それが与える影響を考えて話されるから「聖職者」ではないのか?
明らかに一昨日のメッセージは私の心を砕いた。
100人の方があの会堂にいらっしゃったとしたら
1%の信仰を心から求めている信者の心を砕いたのだ。
今日になってもなお、粉々だと思えるほどに立ち直れない。
神さまは愛だ。
光の方であり、慈愛に満ちた方であり、慰め深く、我々の道である。
私はそう信じている。
信じたいと思っている。
たとえ献金が100円であろうとも、10円であろうとも、
その人の心から出たものであれば、
神さまは喜んで受け取って下さると信じている。
信じたい!
私の神さまを信じたい!!!
くぅ