昨日は月曜日で野球がなかった。
それで暇なので時代劇の話になり「忠臣蔵」を見ようと言うことになり、
DVD2枚組を7時から見始めた。
見終わったのは11時半で、多少疲れたけど、
こんなにも長い時間楽しんでTVを見られたのは久しぶりだと思う。
いつもならドラマは集中力が切れて1時間が限度。
この里見浩太朗の忠臣蔵は本当に名作だと思う。
いろいろなエピソードが日本人の心をわしづかみにするからだ。
昨日の忠臣蔵は1985年の年末スペシャルとして放映された。
この配役がとってもとっても「もの凄い!!」としか言いようがない。
浅野内匠頭は風間杜夫さん、大石内蔵助は里見浩太朗さん、吉良上野介が森繁久弥さん。
以下、田村亮、勝野洋、竜雷太、あおい輝彦、堤大二郎、峰竜太、竹脇無我、中村橋之助。
女性は多岐川裕美、真行寺君枝、中野良子などなど書き切れないので以下リンクを!
忠臣蔵(配役など)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E8%87%A3%E8%94%B5_%281985%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E%29
この配役にどれだけのお金がかかっているんだろうというほどの、
ものすっごい役者陣が出ているのだ。
暴れん坊将軍でお庭番の助八をやっている宮内洋もほんの端役で出ていたり、
西田敏行も重要なご用人役をほんの何分か演じている。
今カムバックして話題の坂上忍も元服前からの大石主税を演じていて可愛い。
さて、忠臣蔵とはなんぞや?
今の若い人はご存じないかもしれない。
歌舞伎の演目として「仮名手本忠臣蔵」として有名な話だ。
赤穂藩の殿様、浅野内匠頭が、吉良上野介にこれでもかといじめを受けて、
大事なお役目の日にとうとう江戸城内で刃傷に及んでしまう。
そして切腹を命じられたため、赤穂藩はお取りつぶしになる。
その時、藩士たちから殿の仇討ちを、といわれた城代家老の大石内蔵助は、
すぐには返事をせず、殿の弟の浅野大学で藩を再興しようとするが叶わなかった。
それを知った内蔵助は妻を離縁し、世間の目を欺いて山科で豪遊する。
そしてとうとう御主君の切腹から1年と8ヶ月たった12月14日。
殿の月命日に、本所松坂町の吉良邸に47人の同士と共に討ち入りを果たし、
憎き吉良上野介の首を揚げる。
そしてその処分を大石内蔵助は幕府に委ねるのである。
我が殿が刃傷に及んだときに、老中の意見を入れず、
喧嘩両成敗にもならず、吉良上野介にはおとがめなしとなった将軍の判断に、
今回もこの自分たちの忠義への判断を求めたのである。
それはあの時の一方的な将軍の裁きに対する挑戦でもあった。
太平の世を騒がせたとして47士に切腹を命じるか、
それとも江戸庶民が英雄と称える忠義の士としておとがめなしとするか、
将軍綱吉はその答えを出せずに、知識者に知恵を求め、
大石内蔵助以下47士に切腹を命じて、志士たちは美しく散りはてるのである。
これらの赤穂浪士のお墓は今も江戸の泉岳寺にある。
浅野内匠頭は切腹の際、辞世の句を残している。
「風さそふ 花よりもなほ我はまた 花の名残りをいかにとかせん」
この辞世の句より大石内蔵助は殿の無念を察したという話も残っている。
そして、殿を慕う忠義の武士達がみな切腹を命じられたとき、
大石内蔵助はこんな辞世の句を残した。
「あら楽や 思ひは晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし」
この辞世の句を読み解くと、もうこの世に心残りはないし、
この夜の雲もかからない月のように晴々としている、ということになる。
そんな忠義のサムライ達が元禄の太平の世の中にいたという話は、
日本人の美徳である忠誠心をくすぐるあっぱれな話として今に語り継がれている。
☆名作「忠臣蔵」☆
くぅ