私ね・・・我喜屋光雄先生の本を姉に堺で入手してもらって、
この前、一気に読んだんだ。
「キリストを着る」っていう本だった。
この本はメッセージをみんなが文章に起こして、
本にしたということで、著作ということではないけど、
我喜屋先生はその中でずっとひたすら貫いておられる事がある。
前に、ローマ書のメッセージ文を読んだときにも思ったけど、
自分は聖書に書いてあるような、イエスさまが言われたような、
立派なことをしよう、罪を赦そう、隣人を愛そう、
そうずっと思っているのに、それができないで自分を責める。
でもね、そうやって罪を犯している自分は「もう古い肉の自分」で、
二千年前にイエスさまと共に十字架で死んだ。
そしてもう天に上げられているんだって。
今の罪を犯している自分は、イエスさまを着ている自分。
キリストと共に新しくされて生きている自分なんだ。
でも肉は実際にはまだ滅びないで、自分の中で暴れ回る。
その時にも絶対に忘れてはならないのは、
私の毎日積み重なっていく罪さえも、
イエスさまが背負ってくださったんだってことだ。
いつも心の中に、この身体の中?精神の中に、
というか・・自分自身と一体となったイエスさまと生きているんだってこと。
毎日罪を犯す。
そのことにクリスチャンは普通の人よりも深く傷付く。
でも、寝る前に神さまに近づいて祈って、
十字架の救いをまた思い出す。
この繰り返しが、自分を高めていってくれるちから。
神さまの恵みなんだって。
我喜屋先生はそんなことを1冊の本の中で何度も書いておられた。
おっしゃっていることはたった一つ。
「私はイエスさまと生きている」
そのことに感謝して、日々の自分を赦すんだって・・・
我喜屋先生もそんなことできてたのかな?
私はそういう風になれるのかな?
それがこの本をここ1週間のうちに読んでから、
ずっと自分に問い続けているけど、神さまからの答えはまだ無い。
でもひょっとしたら私はもう気付いているのかもしれないなーなんてさ。
でも勇気の無い肉の自分なのだなとか・・・
話しかけること、赦すこと、もちろんその前に自分を赦す。
人間関係の中に神さまがいて下さると信じること。
そのことを我喜屋先生がいう「イエスさまと生きている自分」が知ること。
イエスさまの血の汗を思って、
十字架の上で、父なる神さまに、
「なぜ見捨てられたのですか?」と言われたこと。
人間としてのイエスさまを自分の中にもっともっと感じること。
それが祈りで深まったとき、声が聞こえる気がするんだよ。
「あなたの隣人を愛しなさい」と、
温かい光の中から愛の声が、きっと聞こえる。
そんな自分に変えられていくことを今は心から願ってるんだ−。
すベてを委ねて、重荷を降ろすこと。
それはイエスさまと一緒なら今すぐにでも出来るんだって。
肉の自分はもう死んだんだ。
ここにいるのはイエスさまを着ている自分・・・・
何度も何度も・・・そう思えるように祈る毎日だよ。
神さまが私を引き上げて下さるように。
そう・・・愛したいんだと思う・・・私も。
くぅ