今まで同じ教会のメンバーが「神さまからみ言葉が与えられて」というのを、
何度も何度も聞かされていた。
その状態はどういうときに起きるのか?
神さまからみ言葉が与えられるってどういうこと?
声が聞こえてその聖句が頭で響くのか?とか、
そんな超自然現象のようなことは信じられなかった。
でも、最近私はそういうことがあるかもしれないと思うようになった。
その体験を「み言葉が与えられる」というのかどうかは分からないけれど、
自分の心に残り続ける「み言葉」というのは絶対にある。
それが私に神さまが与えて下さった「み言葉」なのなら、
私はごく最近、神さまからみ言葉を与えられた。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、
あなたの神、主を愛しなさい」
(旧約聖書 申命記6:5)
これが今、毎日我が家で行っている聖書朗読の中で、
何度も何度も繰り返され、私の心に残っていった「み言葉」である。
私達は主を信じて祈るけれども、ここまでの覚悟を持って主を崇めているだろうか。
心、精神、力・・・これらの全てを「尽くして」主を愛する。
そんな愛し方が我々、心の弱い人間にできるものだろうか。
しかし、新約聖書でパウロもこの言葉を書簡に書き残している。
多くの教会に手紙を送ったパウロが、
このみ言葉を懸命に伝えようと、何度も手紙に書いた。
イエスさまが最後の夜にゲッセマネの園で、
血の汗を流されて、御父である神さまに祈られた記述があるけれども、
そこまでの苦しみを祈りに込めて、ただひとつのことを祈り、
主を愛し、神を愛し、信じ切ること。
そのことを神さまは我々に求めておられるのだ。
今の私にはそれが足りない。
神さまは聖書朗読を通じて、私にそう語りかけられたに違いない。
この聖句が、私が神さまから与えられ、私の心が受け取った教えであると思う。
4月27日は私達夫婦の受洗記念日だ。
2008年にパプテスマを受け、満8年のその日が来る。
その間に、私はようやく「み言葉をいただく」という体験を得た。
この聖句を心に刻もう。
そして、心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、主を愛そう。
くぅ