現実逃避 80年代に時間旅行というタイトルで書いていた頃の記事です
七夕でしたけど、今回は運命の人についてです。
「誰にも言ってないけど、運命の人を見つけた」隣の席に座っていた彼女は言った。
「ええっ、運命の人?」彼女の話を聞くうちにわたしはその運命の人が誰だかわかってしまった。
彼女が運命を感じたはずその時、その運命の相手はわたしのすぐ側にいた。
いや、そこには他にもたくさんの人がいたのに、不思議なことに彼がその人だと確信できた。
「多分、わたしはあの人と結婚すると思う」彼女は言った。
なぜだろう、わたしもそれに答えたと思う。その確信は正解だと。
その時二人はまだ言葉も交わしたことがなかったというのに。
確信通り二人は恋人同士になった。
わたしは彼女の話を聞くのが楽しくて、うれしくかった。
『運命の人』がこの世にいると思わせてくれる逸話のように思えたからだ。
ここまでならば、子供のたわごとだ。
別に何があったわけではない、時が過ぎて生活の場所が変わり、彼女とは音信が途絶えた。
わたしは人との関係が長続きしない。時には恋愛を放棄し、時には友情を諦めた。
不思議と気の合った彼女も同じく、そうだったのかもしれない。
さらに時は過ぎた。
ある不幸な事件を介して、わたしは彼女の運命の人の消息を知った。
彼は結婚していた。彼の名前の横には妻の名前があった。
・・・それは、間違いなくわたしの隣の席にいた彼女の名前だった。
ああ、十代の頃に確信したことは現実になっていた。
偶然に、そして一方的に知ることになった事実。それでいい。
あの頃から後の、物語の続きをを知りたいとは思わない。それは彼女の人生だ。
わたしは彼女の隣の席にいたという以上の関係を望まない。
ハッピーエンドで終わった物語の続きは、延々と幸福ばかりではないことを
この年になれば知っている。それが人生。
『運命の人』を信じますか?と誰かに聞かれたらわたしはこの話を取り出してくる。
そして答える、
「いる人にはいるけど、いない人にはいない 信じられるか、そうでないかだと思う 信じたいとは思うけど」
だけど、この世ですれ違うだけでも、それは何らかの運命なのかもしれない。
ここまでは個人的な思い出話
もうすっかり内容は忘れてしまいましたが、87年『眺めのいい部屋』/A Room with a View
という英国映画を観ました。
旅先で運命的に出会った男女の話だったと思うのですが、身分(階級)が違ったり、婚約者がいたり、
恋愛が成就するのは困難。でも男性は女性に向かって確かこんなことを言います、
「正しい相手に巡り合うのは幸運なことです」
この『正しい相手』という台詞、まあ、字幕を読んだんですけどね強烈にわたしの心を打ちました。
人はあるいは、正しくない相手と誤って暮らしている場合があるかもしれません。
わかっていながら、感じながらもやり通せたなら、それはいつか本物になるのかもしれません。
まあ、そんなこと若い頃には思えませんでしたけどね
破鏡し、軌道修正というのも今の世では珍しいことではありません。
まじめに結婚を考えているんだ、何が悪い、と言われるかもしれませんが、
最近よく言われる『婚活』という言葉にわたしは違和感を覚えます。
はやりのキーワードみたいな扱いの場合には違和感以上の嫌悪感すら感じます。
そういう商売や本など、結婚を煽る社会現象?には気分が悪くなります。
そんな風に世が焦らせては『正しい相手』に会う前に、会う機会をなくしちゃうよ。
正しい相手に巡り合うことはそれだけ難しい時代なのかもしれませんけど。
いつもわたしを助けてくれたある人が、お見合いをすすめられてそれを断った際に言いました。
「まだ結婚する気もないのに、人の顔を立ててお見合いなんかすると、
本当の結婚相手に出会ったとき間違っちゃうからそういうことしちゃ駄目なの」
その方、わたしから見ても納得、というようなぴったりな人と結婚しています。
運命の人、正しい相手、本当の結婚相手と言葉は変えましたが・・・
わたしが何を言いたいのか、それは・・・・・わたしもよーわからん。誰かフォロー頼みます
ついでにわたしが運命の人に巡り合えたか?って・・・・・それはですね、
とにもかくにも、『婚活』って言葉には買い物に行って
「マイバッグ はお持ちですか?」そりゃあ、わたしにとってはマイだけど・・・と言われたり、
「最近エコが流行っているから」と環境問題まで流行で片付けられることに似た違和感があり、
婚活、コンカツと乗り遅れたらお仕舞いだみたいな煽りにのって、
『正しい相手』を見誤るでない、ということで〆ます。
そして、「わたしにも運命の相手がいるのかな」などと相手が
「いるに違いない」と肯定するのを期待して質問しないように。
そんな人は眺めのいい部屋でも観て見なさい。なんのことやら・・・・完全にぼやきでした。
七夕でしたけど、今回は運命の人についてです。
「誰にも言ってないけど、運命の人を見つけた」隣の席に座っていた彼女は言った。
「ええっ、運命の人?」彼女の話を聞くうちにわたしはその運命の人が誰だかわかってしまった。
彼女が運命を感じたはずその時、その運命の相手はわたしのすぐ側にいた。
いや、そこには他にもたくさんの人がいたのに、不思議なことに彼がその人だと確信できた。
「多分、わたしはあの人と結婚すると思う」彼女は言った。
なぜだろう、わたしもそれに答えたと思う。その確信は正解だと。
その時二人はまだ言葉も交わしたことがなかったというのに。
確信通り二人は恋人同士になった。
わたしは彼女の話を聞くのが楽しくて、うれしくかった。
『運命の人』がこの世にいると思わせてくれる逸話のように思えたからだ。
ここまでならば、子供のたわごとだ。
別に何があったわけではない、時が過ぎて生活の場所が変わり、彼女とは音信が途絶えた。
わたしは人との関係が長続きしない。時には恋愛を放棄し、時には友情を諦めた。
不思議と気の合った彼女も同じく、そうだったのかもしれない。
さらに時は過ぎた。
ある不幸な事件を介して、わたしは彼女の運命の人の消息を知った。
彼は結婚していた。彼の名前の横には妻の名前があった。
・・・それは、間違いなくわたしの隣の席にいた彼女の名前だった。
ああ、十代の頃に確信したことは現実になっていた。
偶然に、そして一方的に知ることになった事実。それでいい。
あの頃から後の、物語の続きをを知りたいとは思わない。それは彼女の人生だ。
わたしは彼女の隣の席にいたという以上の関係を望まない。
ハッピーエンドで終わった物語の続きは、延々と幸福ばかりではないことを
この年になれば知っている。それが人生。
『運命の人』を信じますか?と誰かに聞かれたらわたしはこの話を取り出してくる。
そして答える、
「いる人にはいるけど、いない人にはいない 信じられるか、そうでないかだと思う 信じたいとは思うけど」
だけど、この世ですれ違うだけでも、それは何らかの運命なのかもしれない。
ここまでは個人的な思い出話
もうすっかり内容は忘れてしまいましたが、87年『眺めのいい部屋』/A Room with a View
という英国映画を観ました。
旅先で運命的に出会った男女の話だったと思うのですが、身分(階級)が違ったり、婚約者がいたり、
恋愛が成就するのは困難。でも男性は女性に向かって確かこんなことを言います、
「正しい相手に巡り合うのは幸運なことです」
この『正しい相手』という台詞、まあ、字幕を読んだんですけどね強烈にわたしの心を打ちました。
人はあるいは、正しくない相手と誤って暮らしている場合があるかもしれません。
わかっていながら、感じながらもやり通せたなら、それはいつか本物になるのかもしれません。
まあ、そんなこと若い頃には思えませんでしたけどね
破鏡し、軌道修正というのも今の世では珍しいことではありません。
まじめに結婚を考えているんだ、何が悪い、と言われるかもしれませんが、
最近よく言われる『婚活』という言葉にわたしは違和感を覚えます。
はやりのキーワードみたいな扱いの場合には違和感以上の嫌悪感すら感じます。
そういう商売や本など、結婚を煽る社会現象?には気分が悪くなります。
そんな風に世が焦らせては『正しい相手』に会う前に、会う機会をなくしちゃうよ。
正しい相手に巡り合うことはそれだけ難しい時代なのかもしれませんけど。
いつもわたしを助けてくれたある人が、お見合いをすすめられてそれを断った際に言いました。
「まだ結婚する気もないのに、人の顔を立ててお見合いなんかすると、
本当の結婚相手に出会ったとき間違っちゃうからそういうことしちゃ駄目なの」
その方、わたしから見ても納得、というようなぴったりな人と結婚しています。
運命の人、正しい相手、本当の結婚相手と言葉は変えましたが・・・
わたしが何を言いたいのか、それは・・・・・わたしもよーわからん。誰かフォロー頼みます
ついでにわたしが運命の人に巡り合えたか?って・・・・・それはですね、
とにもかくにも、『婚活』って言葉には買い物に行って
「マイバッグ はお持ちですか?」そりゃあ、わたしにとってはマイだけど・・・と言われたり、
「最近エコが流行っているから」と環境問題まで流行で片付けられることに似た違和感があり、
婚活、コンカツと乗り遅れたらお仕舞いだみたいな煽りにのって、
『正しい相手』を見誤るでない、ということで〆ます。
そして、「わたしにも運命の相手がいるのかな」などと相手が
「いるに違いない」と肯定するのを期待して質問しないように。
そんな人は眺めのいい部屋でも観て見なさい。なんのことやら・・・・完全にぼやきでした。