Yahoo!のニュースに保毛尾田保毛男の文字を見つけました。
正直なところわたしはあまりとんねるずは好きではありません。
あ、でも好きではないということも書いてはいけないのかしら?と、実のところ少し戸惑います。
昨今の風潮が怖いです。でも感じることの自由は許されていますよね。
そう、とんねるずは好きではないけれど、その昔保毛尾田保毛男というキャラを見て笑っていました。
それも結構おなかを抱えて・・・。だけどその笑いの中には誰かを差別したり、蔑視した思いは皆無でした。
でもこれを見て不愉快に思ったり、傷ついたりする人がいたということにも思いは至りませんでした。
単純に面白いものを見て楽しい気持ちになっていたということだけでした。
むしろもっと他の点でとんねるずの振る舞いが気になることはありましたけど。
同じ頃?少しずれがあったらすみませんが、ウッチャンナンチャンの番組で九州男児というキャラが
同じように楽しかった覚えがあります。
わたしも九州生まれですが、別にこれを見てバカにされた感も不快なこともありませんでした。
ひとは不快を感じるツボはそれぞれに異なるでしょうし、わたしだって他の人は思わなくても、
言われたら嫌なことはあります。でも、それが嫌だったから、いちいちその人に誤ってくれとは言いませんし、
例え、そういって誤ってもらったとしても、その人の心の中にあるその考えは変わることはないでしょう。
そう、この『思っている』という点が今回の問題なのでしょう。
これを観て差別意識を生み出すという点です。言い直すと、『思い始める』心を生み出すという点です。
Sexual Orientationは人それぞれで努力で変えられるものでもないので、
わたしは人それぞれでいいではないかと、ずっと10代の時から思っています。
なのに保毛尾田保毛男を観て笑いました。
もう一度自分に問い直してみても、保毛尾田保毛男を楽しいと思っただけで、
そこに差別意識を探してみても自分の中にはやっぱりみつけられません。
笑ったことが差別なのだと言われればもう返す言葉はありません。
最近は子供が真似をしたら・・・という言葉をよく聞きます。
昔も言っていたかもしれません。
でも、それを真似するのがいいのか、悪いことなのか判断できる人に育てることが
大人の役目なのではないのかなぁ。と、子供がいないので、批判されるかな。
ちょっと前に『意地悪ばあさん』の漫画を懐かしくて読んだのですが、
巻末に現在では不快に思う人がいるかも云々、作者はすでに故人で云々という
断りの文章が保険みたいに書かれていて、かえって気が重くなりました。
こういう謝罪とか断りが表現の世界に常に介入してくることは由々しきことなのでは。
最後にもう一度、謝ろうが何をしようが、その人の心の中は変えることはできません。
誤ってもらいたいあなたの心の中が自由で変えられないのと同じでその人の心も自由だから。
謝らせて解決するわけではないとわたしは思います。
むしろおずおず何事にも気を使って優等生発言する若い子たちの心の中が気になります。
あれから30年何も言えなくなる時代が来る気がしてちょっと怖いです。
正直なところわたしはあまりとんねるずは好きではありません。
あ、でも好きではないということも書いてはいけないのかしら?と、実のところ少し戸惑います。
昨今の風潮が怖いです。でも感じることの自由は許されていますよね。
そう、とんねるずは好きではないけれど、その昔保毛尾田保毛男というキャラを見て笑っていました。
それも結構おなかを抱えて・・・。だけどその笑いの中には誰かを差別したり、蔑視した思いは皆無でした。
でもこれを見て不愉快に思ったり、傷ついたりする人がいたということにも思いは至りませんでした。
単純に面白いものを見て楽しい気持ちになっていたということだけでした。
むしろもっと他の点でとんねるずの振る舞いが気になることはありましたけど。
同じ頃?少しずれがあったらすみませんが、ウッチャンナンチャンの番組で九州男児というキャラが
同じように楽しかった覚えがあります。
わたしも九州生まれですが、別にこれを見てバカにされた感も不快なこともありませんでした。
ひとは不快を感じるツボはそれぞれに異なるでしょうし、わたしだって他の人は思わなくても、
言われたら嫌なことはあります。でも、それが嫌だったから、いちいちその人に誤ってくれとは言いませんし、
例え、そういって誤ってもらったとしても、その人の心の中にあるその考えは変わることはないでしょう。
そう、この『思っている』という点が今回の問題なのでしょう。
これを観て差別意識を生み出すという点です。言い直すと、『思い始める』心を生み出すという点です。
Sexual Orientationは人それぞれで努力で変えられるものでもないので、
わたしは人それぞれでいいではないかと、ずっと10代の時から思っています。
なのに保毛尾田保毛男を観て笑いました。
もう一度自分に問い直してみても、保毛尾田保毛男を楽しいと思っただけで、
そこに差別意識を探してみても自分の中にはやっぱりみつけられません。
笑ったことが差別なのだと言われればもう返す言葉はありません。
最近は子供が真似をしたら・・・という言葉をよく聞きます。
昔も言っていたかもしれません。
でも、それを真似するのがいいのか、悪いことなのか判断できる人に育てることが
大人の役目なのではないのかなぁ。と、子供がいないので、批判されるかな。
ちょっと前に『意地悪ばあさん』の漫画を懐かしくて読んだのですが、
巻末に現在では不快に思う人がいるかも云々、作者はすでに故人で云々という
断りの文章が保険みたいに書かれていて、かえって気が重くなりました。
こういう謝罪とか断りが表現の世界に常に介入してくることは由々しきことなのでは。
最後にもう一度、謝ろうが何をしようが、その人の心の中は変えることはできません。
誤ってもらいたいあなたの心の中が自由で変えられないのと同じでその人の心も自由だから。
謝らせて解決するわけではないとわたしは思います。
むしろおずおず何事にも気を使って優等生発言する若い子たちの心の中が気になります。
あれから30年何も言えなくなる時代が来る気がしてちょっと怖いです。
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