現実逃避 80年代に時間旅行というタイトルで書いていた頃の記事です
あのひとの夢をみた。
もう自分ではすっかり忘れてしまっているつもりだったのに。
最近、チラッと見かけたせいかもしれない。疲れた風情だった。
もう昔のような特別な感情はない。
時というのは不思議なものだ。
初めての出会いは86年。印象的なひとだった。
二度目、なんて感じの悪い人だろう・・・。
そして二年が過ぎて88年、久しぶりに再会したそのひとは優しく微笑んでいた。
誰かに人生を左右されるなんて真っ平だと思うけれど、きっと出会っていなければ、
わたしの人生はもっと別の方向を向いていただろう。
わたしたちは時々びっくりするくらい同じようなことを考えていた。
でも、それが二人が同じ道を歩くために必ずしも必要なものではなかったことが、今ならわかる。
大人になったばかりだったわたしは、二人が一緒の道を歩くための切符のごとくそれに執着し、
そして信じ、すがった。
夢に出てきたあのひととわたしは肩を並べていても、心の中でわたしは距離をとる。
近づき過ぎないように、近づき過ぎないように、二人は絶対同じ道を歩けはしないのだから、
後がつらいよ近づきすぎると・・・夢の中の自分に言い聞かせる。
けれど、ただ同じ部屋に一緒にいらけることがうれしくて、うれしくて、うれしくて。
醒めることも、その部屋を出て行かなければならないこともわかっているのに、
うれしくて、仕事を中断してくれたあのひとにたくさん、たくさん話しかけた。
「何も期待してはいけないことはわかっているから」
優しい秋の夢に騙されてみる気にはなれなかった。目覚めたら、現実が必ずある。
ふるい日記にこんなことを書いた覚えがある。
((秋の夢はわたしに期待をさせて、いい気にさせて、肝心なところで覚めてしまう))
思うに、明け方ひんやりする季節、お気に入りの柔らかな毛布の心地よさが、
はじめは優しく、結果的には残酷な夢を運んでくるんだ。
もう恋なんてしないはずなのに、目覚めたときに恋していた頃のようにせつない。
そしてこんな夢をみるのは決まって秋恋や恋 われ中空になすな恋
恋っていうのは、やはりひとり悲しむ(孤悲)ものなのかもしれませんね。
幾つになっても思い出すと胸が痛いわ。
あのひとの夢をみた。
もう自分ではすっかり忘れてしまっているつもりだったのに。
最近、チラッと見かけたせいかもしれない。疲れた風情だった。
もう昔のような特別な感情はない。
時というのは不思議なものだ。
初めての出会いは86年。印象的なひとだった。
二度目、なんて感じの悪い人だろう・・・。
そして二年が過ぎて88年、久しぶりに再会したそのひとは優しく微笑んでいた。
誰かに人生を左右されるなんて真っ平だと思うけれど、きっと出会っていなければ、
わたしの人生はもっと別の方向を向いていただろう。
わたしたちは時々びっくりするくらい同じようなことを考えていた。
でも、それが二人が同じ道を歩くために必ずしも必要なものではなかったことが、今ならわかる。
大人になったばかりだったわたしは、二人が一緒の道を歩くための切符のごとくそれに執着し、
そして信じ、すがった。
夢に出てきたあのひととわたしは肩を並べていても、心の中でわたしは距離をとる。
近づき過ぎないように、近づき過ぎないように、二人は絶対同じ道を歩けはしないのだから、
後がつらいよ近づきすぎると・・・夢の中の自分に言い聞かせる。
けれど、ただ同じ部屋に一緒にいらけることがうれしくて、うれしくて、うれしくて。
醒めることも、その部屋を出て行かなければならないこともわかっているのに、
うれしくて、仕事を中断してくれたあのひとにたくさん、たくさん話しかけた。
「何も期待してはいけないことはわかっているから」
優しい秋の夢に騙されてみる気にはなれなかった。目覚めたら、現実が必ずある。
ふるい日記にこんなことを書いた覚えがある。
((秋の夢はわたしに期待をさせて、いい気にさせて、肝心なところで覚めてしまう))
思うに、明け方ひんやりする季節、お気に入りの柔らかな毛布の心地よさが、
はじめは優しく、結果的には残酷な夢を運んでくるんだ。
もう恋なんてしないはずなのに、目覚めたときに恋していた頃のようにせつない。
そしてこんな夢をみるのは決まって秋恋や恋 われ中空になすな恋
恋っていうのは、やはりひとり悲しむ(孤悲)ものなのかもしれませんね。
幾つになっても思い出すと胸が痛いわ。
恋のおもひで、素敵ですね。などと一言で言ったら怒られそうですが…
恋ばかりではなく、色々な場面で『昔はものを 思はざりけり』と感じる年頃?です