【語解】『倭名類聚抄箋註』「井附桔槹」
13 天武紀(テンムキ)に、地名(チメイ)「金剛井(かなづなゐ)」有(あ)り。
※実際、『日本書紀』12805「更還屯金綱井、而招聚散卒」○更(さら)に還(かへ)りて金綱井(かなづなのゐ)に屯(いは)みて、散(あか)れる卒(いくさ)を招(を)き聚(あつ)む。〔卷廿八・天武紀上、元年七月〕に見えるとし、「金綱井」と「金剛井」の「綱」と「剛」字の表記差異があり、この箇所については、前述した契沖編『和名抄釋義』から棭齋自身が依拠した内容と見ていて、そこには書紀記載の「金綱井」と記載していることから、棭齋の思い込みの記載となっていて。茲に「金剛井」と記載したと推断した。その後、棭齋から引き継いだ渋江抽斎や森立之らも『書紀』記載内容について再検証せずに編集刊行してきたということにもなる。と同時に、此の地名が『和名抄』の郡名にも未収載となっていることを消えた地名と見るとき不詳とせざるを得ない。奈良県橿原市小綱の辺りの地名だったのかと?
慶長八年版『日本書紀』卷廿八天武紀上(元年七月)
「更ニ還テイハム屯テ二金䌉(カナツナ)ノ井ニ一而招二聚(ヲキアツム)散(アカレル)卛(イクサ)ヲ一於是ニ」
とあって、「金䌉(カナツナ)ノ井」としている点を見定めておく。
※HNG(漢字字体規範史データ)に、日本写本『續高僧傳』(五月一日經)[日本寫刊典籍文書]七四〇(天平一二)年「䌉」字を見る。