くら【倉・廩】から
くら【倉】54語『今昔物語集』
和語「くら」について調査しています。
平安時代の醍醐天皇の御代の梨壺の五人の編者の一人であり、源順『倭名類聚抄』または『和名類聚抄』、略して『和名抄』という古辞書を編纂しました。
このなかに、くら【倉廩】の語が見えています。
この平安時代の末頃に編纂された説話文学『今昔物語集』のなかでどのように描かれていたのかを見定めています。
とくに、あぜくら【校倉】の語例は、注目に値します。
このことに、最初に気づいたのは、江戸時代の国学者谷川士清です。その著『倭訓栞』に記載が見えています。
〔卷第二十七〕在原業平中将女、被 鬼語第七
△今昔、右近ノ中将在原ノ業平ト云フ人有ケリ。極キ世ノ好色ニテ、世ニ有ル女ノ形チ美ト聞クヲバ、宮仕人ヲモ人ノ娘ヲモ見残ス无ク、員ヲ盡シテ見ムト思ケルニ、或ル人ノ娘ノ形チ・有樣世ニ不知ズ微妙シト聞ケルヲ、心ヲ盡シテ極ク假借シケレドモ、「止事无カラム聟取ヲセム」ト云テ、祖共ノ微妙ク傅ケレバ、業平ノ中将力无クシテ、有ケル程ニ、何ニシテカ構ヘケム、彼ノ女ヲ蜜ニ盗出シテケリ。
△其レニ、忽ニ可将隠キ所ノ无カリケレバ、思ヒ繚テ、北山科ノ邊ニ舊キ山庄ノ荒テ人モ不住ヌガ有ケルニ、其ノ家ノ内ニ大ナルアゼ倉有ケリ、片戸ハ倒レテナム有ケル。住ケル屋ハ板敷ノ板モ无クテ、可立寄キ樣モ无カリケレバ、此ノ倉ノ内ニ疊一枚ヲ具シテ、此ノ女ヲ具シテ、将行テ臥セタリケル程ニ、俄ニ雷電霹靂シテ■ケレバ、中将、大刀ヲ抜テ、女ヲバ、後ノ方ニ押遣テ、起居テヒラメカシケル程ニ、雷モ漸ク鳴止ニケレバ、夜モ■ヌ。(古典大系参照)
くら【倉】其の二
狩谷棭齋『倭名類聚抄箋註』の居宅類の「くら【倉廩】」
40「本居氏曰」と45「谷川氏曰」の同時代の先学者が記述した資料を各々の箇所を引用して、己が立証註記の拠り所となしていくのだが、何処から何処までを援用したのか、その境界線が明確になっていないという点を棭齋『倭名類聚鈔箋注』の記述から見通しておくことが後学の研究者には必要となってきている。
というのは、此の標記語「倉廩」の語註記で明らかにしておくと、
40 本居(宣長)氏(『古事記傳』)に曰く「倉」を「久良」と訓み、「久良」與に、「座鞍」、與に竝べ同じき語を以って置く所の物の〈之〉名とす。」
45 又、「倉」は、谷川(士清)氏(『倭訓栞』)に曰く、「阿世」にて、交はるなり〈也〉。
46 搆材を交はせ、以て壁に爲る。
時代順に見るのであれば、『倭訓栞』谷川士清が先学で、『古事記傳』本居宣長が後学となるのだが、棭齋は、直接対面談に預かった「倉」字の宣長説を挙げている。継いで、宣長自身が師の一人と仰いだ、士清(棭齋は直談はない)の説を引く。その後者の士清が記述した『倭訓栞』は、宣長も校閲に参加している訣だが、士清自身がその参考引用している文献書物が取り分け目を惹きつけてならない。既に前述した『倭訓栞』の当該語「くら【倉】」、「あぜくら【叉庫】」を再度用いて見ておくと、
45 又、「倉」は、谷川(たにかは)(士清)氏(『倭訓栞』)に曰く、「阿世」にて、交はるなり〈也〉。
※『倭訓栞』〔上卷六八三頁~六八四頁〕
くら 物置處をすへて「久良」といふ、「倉」「廩」「庫」「蔵」の如き、みな物置處なり、それより「枕」は目を置處、「鞍」は人の馬上に在處、「千座置戸」の如きみなその意は同しく、詞は次第に轉移るなり、たとへは『文選』射雉賦に、「越レ壑凌レ岑、飛鳴薄レ廩」と有り、注に徐爰曰、「廩翳中盛二飲食一處、今俗呼レ翳名曰レ倉」と見えしか如きも、雉に喰はする餌を置處を、「久良」といふなり、「倉廩」は穀物なと置より、假ていへるなり類名
くら 倉也、萬十六、枳うはらかりそくら立む、同九、かりてをさめむくらなしのはま、
※『倭訓栞』〔上卷四八頁〕
あぜくら 『和名抄』に「校倉」をよめり、『今昔物語(集)』『宇治拾遺(物語)』にも見ゆ、「あぜ」は「交」の義なるへし、「方なる木」を打違て「井樓」の如くにくみあげて木の角を外ヘあらはすよて『下學集』には「叉庫」と書り。『新猿楽記』にも「叉庫甲蔵」とみゆ。俗に「あぜり」ともいふといへり。○姓には「畤籠」とかけり。○「山陵」に用ゐし事『貞信公記』に見ゆ。○『北山抄』に「校屋、あぜや」とよめり。
【自筆本】〔二三オ〕
あぜくら 『今昔談』(=今昔物語集)にみゆ。『倭名抄』に「校倉」をよめり。然に「まぜ」を「あぜ」ともいへる「交」の義にや。/『下学集』に「あぐら 胡床」をいふ義。「叉庫」を上座の義也。○俗に「平踞」を物如く「角やぐら」とかくといふ此義にや。木を打違へて井樓の如くに組あげて木の角を外ヘ見はす故に「叉庫」といふ。俗に「あぜる」をもいふといへり。
とあって、棭齋は士清の『倭訓栞』をふんだんに活用していて、此の箇所を記述していることが見てとれる。とりわけ、『下學集』『新猿楽記』は、棭齋自身、他の標記語注記には用いていないことからして、此処の註記を後世の吾人たちが見るとき、谷川士清『倭訓栞』からの孫引きと見て良いのではあるまいか。
棭齋は、室町時代の古辞書『下學集』(古写本乃至元和古活字板、江戸版本類)を本統に手に取って、自らこの「叉庫」の箇所を記述したのだろうか、稍吾人には疑問視する箇所となっている。敢えて、彼の如き蒐集力の規模にあれば、茲に引用した文献資料の二書については、僅かな時間であっても手許に備え置き、且つ引用したという立場も決して捨てきれない。此を證明する棭齋が参考使用した書物の実在とその発見を願うばかりなのだが・・・。
とあれ、棭齋が使用した『倭訓栞』が清書きされた以後の資料なのか、その写しの校訂素稿書だったのかは、今は触れないでおく。ただ、『下學集』『新猿楽記』の両書を此の部分に転用し、士清が説いた、他の『文選』射雉賦や、本邦説話資料『今昔物語集』『宇治拾遺物語』、録書の『貞信公記』、歌学書の『北山抄』まで、全て爰の註記語に用いていたのであれば、当に援用となることは誰の目にも明らかとなってくるのだが、敢えて此の「叉庫」の語において、二書に留めて註記説明した棭齋の執筆姿勢だけが茲には見えてきている。爰は、棭齋自身の検証と云うより、谷川士清の博捜力に助けられた註記説明である点を強く述べておきたい。
餘談になるやもしれないが、士清が見出した他資料の箇所を次に精確に検証しておく。
⑴『文選』射雉賦
「越レ壑凌レ岑、飛鳴薄レ廩[徐爰曰廩翳中盛二飲食一處、今俗呼レ翳名曰レ倉]
○越壑凌岑、飛鳴薄廩。〈鷩性悍憋、聞媒聲便越澗凌岑、且飛且鳴、逕來翳前也。廩、翳中盛飲食處、今俗呼翳名曰倉也。〔卷第九《射雉賦》六〕
⑵『今昔物語集』鈴鹿本・卷第廿七「在原業平中将女、被レ鬼語」第七
○△其レニ、忽ニ可将隠キ所ノ无カリケレバ、思ヒ繚テ、北山科ノ邊ニ舊キ山庄ノ荒テ人モ不住ヌガ有ケルニ、其ノ家ノ内ニ大ナルアゼ倉有ケリ、片戸ハ倒レテナム有ケル。
⑶『宇治拾遺物語』巻八・三「一〇一 信濃国(しなののくに)の聖(ひじり)の事」
○大(おほき)なる校倉(あぜくら)のあるをあけて、物取り出す程に、この鉢飛びて、例の物乞ひに来たりけるを、「例の鉢来にたり。
⑷『貞信公記』〔藤原忠平の日記〕卷一・二八二
○延長八年十月十日、南北十丁〔町〕、穴深九尺、方広三丈、校倉高四尺三寸、従広〔縦横〕各一丈、一説
⑸『北山抄』
○貞観三年十一月十七日倉壱宇〈大破〉板校倉壱宇〈大破〉五間収屋壱宇〈大既収
133 東大寺文書四ノ八十六1/114
○延応元年四月 日 屋検非違使屋酒殿御油校倉直会殿舞殿御宝蔵既収〔5422春日社恒例臨時神事記8/40〕