きょうは朝から爽やかな口笛が聞こえている。
昨日までは電動削岩機の様な暑苦しい不快な音が鳴り響いていて、少々アトリエに入るのがうんざりしていた。
隣のお屋敷が先日から職人を入れて大規模な庭の改修工事を始めたのだ。
ポルトガルの家屋敷は時たま改修工事をするようだ。
まだまだ古びてはいないのに床のタイルを張り替えたり、台所の戸棚の扉を取り替えたり。天井に模様を付けたり。まるで服や靴の新しいのを買うように。そして服に合ったアクセサリーを揃える様に…家屋敷の模様替えを楽しむ。そういった事を日曜大工で行なう人も多いのだが、お隣の庭には職人が入って大々的だ。
昨日の内に古い敷石を取り除いて、きょうはすっかり赤土が丸見えになっている。昨日で電動工具が終わってきょうは手作業なのか、大きな音は聞こえない。コツコツと少しの音がするだけ。
そして口笛が聞こえる。
職人の一人が口笛を吹いているのだろう。伸びのある澄んだ音色で実に巧い。乗っていて、いかにも仕事がはかどっているようにも聞こえる。
他の職人も聞き惚れているのかも知れない。話し声すら聞こえない。美しいメロディを奏でる。僕には判らないが、ポルトガルの古い曲なのかも知れない。まさか作曲している訳でもあるまい。
職人の顔姿は見えないし、どんな作業をしているのかも見えない。年恰好も判らないが、この職人の口笛はメルローにも似ている。
ウグイスが同じメロディを奏でるのとは違って、ポルトガルに住む野鳥のメルローはいつも様々なメロディを囀りまるで作曲をしている様だ。メルローの歌声は春から初夏の頃なのか、そう言えば最近は聞こえない。
こんな人が仲間にいれば仕事ははかどるのだろう。
昔から唄と人間の作業は一対だったのだろうと思う。
農作業や漁業には必ず民謡という唄がある。ポルトガルにも各地にフォルクローレが残っていて、収穫祭などで踊りと共に披露される。
フォルクローレが都会に出て詩や楽器が洗練され、ファドになったのではないかと僕は思っている。メロディなど共通点も多い。
僕たちのマンションでは毎月幾らかの共益費を収めている。その中から共同部分の玄関や階段などの掃除を頼んでいて、週に1~2度おばさんがやってくる。
以前に来ていたおばさんは掃除をしながらファドを唄う。箒のカサカサという音と階段ホールでエコーが効いて実に良い感じに、壁を伝って心地よくアトリエまで聞こえていた。
僕がもし唄が上手ければここで鼻歌か口笛でコーラスでも入れたいところだが…
僕は昔から口笛が下手だった。いや恐らく今も下手だ。最近は鳴らしてみたこともない。そしてどちらかと言うと音痴だ。
子供の頃、人前で口笛を吹くのが恥ずかしかった。フィーフィーと風ばかりで一向に笛にならなかった。小学生の頃、友人に口笛だけでなく、指笛も鳴らすことが出来る奴がいて、僕は尊敬をしていた程だ。
そう言えば彼はそのあたりのネコジャラシの葉っぱをちぎって草笛も上手く鳴らした。僕は少し練習もしたが、アレルギー体質でやりすぎると唇が腫れた。僕は恥ずかしく、何も鳴らすことが出来ないまま大人になった。
高校美術部の同級生で絵筆を持つと必ず口笛を吹く奴がいた。曲は決まって何故か「同期の桜」だった。口笛がやがて唄になる。
「きっさまっとおっれっと~~わっ、ど~きっのぉさぁ~くぅ~らぁ~」絵筆が滑らかに走る様に運んでいたのを僕は見ていた。他の同級生は眉をしかめていた。
棟方志功の身体には津軽三味線の血が流れていると本人が言っていたのを覚えている。板に直接墨で描き、彫り進めて行く形はまさに津軽三味線のリズムだ。
僕にもそんなリズムが流れていたらいいのになと思う時もあるが、河内音頭すら唄ったことがないし、歌詞も知らないくらいだから仕方がない。
でも実際には音は出なくても、心の口笛でも吹きながら絵筆を握りキャンバスに向かうことが出来れば…。
或いは今からでも口笛の練習をするのも悪くはないかも。
他人に迷惑をかけない程度なら…。
VIT
(この文は2007年9月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)
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