武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

026. ロレーヌ地方ナンシー、アールヌーボー紀行(上)

2018-10-21 | 旅日記

 昨年のフランス行きはブルターニュ地方のポンタヴァンとル・プルデュなどを旅し、ゴーギャン (1848-1903) を中心としたポンタヴァン派について考えてみた。

 今年は漠然とではあるが、時代を遡って「ミレー (1814-1875) について考えてみる旅も良いかな」と思っていた。

 そんな時恩師の藤井満先生からお便りを頂いた。

 「ポンタヴァン派の続きとしてアールヌーボーを観てこい。」と言う。

 具体的には「ナンシーに行って高島北海 (1884-1889/ナンシーに留学)がフランス美術に与えた影響を…黒田清輝や久米桂一郎のように仏国から持って帰って来た美術に対して置いて来た美術がどう西洋美術を変えたか?浮世絵が変えたその後?へ…。」とのことであった。

 

2004/09/30(木)晴れ時々曇り/Setubal-Lisbon-Paris

 

 パリへの飛行機はいつもリスボン空港を7時40分に飛び発つ朝一番の便を予約する。

 それに乗るには夜中4時に起きて、セトゥーバルを5時発の始発ローカルバスに乗らなければならない。

 それでもド・ゴール空港に着くのは11時10分。

 ポルトガル時間なら10時10分だがフランスとポルトガルでは1時間の時差があるので1時間損をする事になる。

 もう一つ遅い便では14時50分着だから空港でちょっとぐずぐずしていたらパリ市内に着くのは夕方になってしまうのでもう何も出来ない。

 

 先ずはグラン・パレにあるル・サロンの事務所に行ってル・サロンに関する事務手続きを済ませた後、リュックを担いだままチュイルリー公園をルーブル宮の方に歩いた。

 マロニエの実がたくさん落ち、それが道路にまで転がり出てクルマに潰され白い身を見せている。

 立派な実なのに食べられないとは惜しい。

 葉っぱも既に茶色く色づいて濃淡が美しい。

 

 アールヌーボーでは最重要コレクションの「装飾美術館」をナンシーに行く前に是非観ておきたかったのだ。

 「装飾美術館」[Musée des Arts Décoratifs] はルーブル宮の一角にある。

 チュイルリー公園のマイヨール (1861-1944) の庭に面したベンチでサンドイッチの昼食を済ませ



01マイヨールの庭園

 

 「装飾美術館」の入口に行くと黒人女性のガードマンが「何を観たいのですか?」と訊ねる。

 「アールヌーボー」と答えると「それは今はダメです!閉鎖中です。」

 つい先日この美術館で宝石の企画展のオープニングパーティーがあって、その時、歴史的にも貴重で巨大なダイヤモンドが盗まれる事件があった。

 まるでサスペンス映画ばりの事件である。

 その事件はポルトガルのニュースでも見て知ってはいたが、やはりその現場検証やなにやらで入れなくなっていたのだ。運が悪い。

 

 仕方がないので一旦ホテルでチェックインを済ませ荷物を降ろし、オルセー美術館 [Musée d'Orsay] に向かった。

 オルセーもアールヌーボーでは重要な美術館である。

 昨年にもオルセーは観ている。

 でもいつも絵画を中心に観るのでアールヌーボーの部屋をじっくりと観ることはなかった。

 じっくりと観ると実にアールヌーボーにスペースを割いていることが分る。

 ガレ (1846-1904) やドーム兄弟 (Auguste/1853-1909)(Antonin/1864-1930) のガラス器やルネ・ラリック (1860-1945) のアクセサリーもあるが、大型の家具とか部屋ごとを再現した展示など一通りを鑑賞することが出来る。

 家具と対にしてボナール (1867-1947) の縦長、4点の絵が飾られていたりもした。

 また、ステンドグラスはアールヌーボーにとって重要な装飾の一つでもある。

 そのデザインを当時最先端のナビ派の画家たち、ボナール、ドニ (1870-1943)、ヴァロットン (1865-1925)、ヴィヤール (1868-1940) やロートレック (1864-1901) にも依頼している。

 なるほど初期の木彫レリーフなどはポンタヴァン派のそれとさほど変わらない。

 重複して大きな流れの中に美術運動があるのが解る。




02.03.04.05.オルセー美術館大時計の裏側から見えるルーブル/ボナールの絵とアールヌーボー家具/試着室の扉/ガレのランプのある「別荘の食堂」シャルパンティエ

 

 アールヌーボーを観終わってそのまま出るのは惜しい気がして、ゴッホ (1853-1890)、ゴーギャン (1848-1903)、セザンヌ (1839-1906)、モネ (1840-1926) などとボナール (1867-1947)、ヴィヤール (1868-1940)。

 それにミレー (1814-1875)、テオドール・ルソー (1812-1867)、コロー (1796-1875)、アングル (1820-1856)、マネ (1832-1883) と一通りをさーっとではあるが駆け足で観た。

 やはり昨年とは少し展示替えが行われている。




06.07.「オランピアと浮世絵がバックのゾラの肖像」マネ(1832-1885)/「干草作り」サロン1850出品作・ミレー(1814-1875)

 

2004/10/01(金)曇り一時小雨/Paris-Nancy

 

 パリ東駅からナンシーまではTGV(新幹線)はない。

 近いと思っても在来線だから3時間近くもかかってしまう。

 それでも座席はTGVと変わらない快適な乗り心地である。

 例年より1ヶ月早いフランス旅行であるが、車窓を流れる木々も少しは紅葉していて美しい。

 でも例年よりはやはり緑が深い。

 コローやテオドール・ルソーの絵の様な中を走る。

 

 ナンシーでは毎年この時期にジャズ祭が催される。

 ストラスブールでもこの時期はワイン祭の筈である。

 いつもなら余程夜遅くに到着の予定がない限りホテルの予約はしないのだが、心配だったので今回の旅では全日程のホテルを予約しておいた。

 インターネットが出来る様になったおかげだ。




08.ナンシージャズ祭のポスター

 

 でもナンシージャズ祭は一週間後のスケジュールになっていて、予約したホテルは空いていた。

 親父さんは自慢げに「一番良い部屋だよ」と言いながら鍵を渡してくれた。

 ホテルはアールヌーボー建築のお屋敷町の近くだったが部屋にはロココ調の飾りが施されていた。

 200年も前の古い建物らしいがバスルームなどは現代風にリメイクされたばかりで気持ちが良かった。

 

 さっそく町の中心スタニスラス広場の観光案内所まで、駅から歩いてきた道とは違う裏道を歩いて行った。

 街の中心からはかなり遠くに宿を取ってしまったらしい。

 明日の土曜日にしか公開されない「マジョレルの家」 の予約に行ったのだ。

 マジョレル [Louis Majorelle/1859-1926] とはアールヌーボーでは重要な家具作家の一人である。

 観光案内所では「ここでは出来ません。ナンシー派美術館で予約をして下さい。」とのことだったので早速「ナンシー派美術館」に向かった。

 ナンシー派美術館は駅とホテルを通り越して町の反対側にある。

 途中には入口のステンドグラスが競うようにして並んでいるアールヌーボー建築が続く道を進んだ。

 その一つ一つがまるで美術画廊通りの様に感じた。

 「内側から見れば美しいのだろうな?」と想像しながら…ステンドグラスだけではなく、家の造り、窓の手すりの飾りなど同じ物は二つとなくそれぞれが主張しあい贅を尽くした美術品であった。

 

 「ナンシー派美術館」[Musée de l'Ecole de Nancy] はガレたちナンシー派作家のパトロン・コルバン夫妻の屋敷を美術館にしたものである。

 ガレやドームの作品はもちろん、曲線のアールヌーボー家具、寄せ木象嵌細工のピアノ、ベッド、椅子、机など天井から柱、ステンドグラスまで全てがアールヌーボーの華麗な世界である。




09.10.11.「セリの図柄ランプ」ガレ/「竹模様飾り棚」ガレ/「エミル・ガレの肖像」ヴィクトル・プルーヴェ作

 

 残念ながらそこには「高島北海」の作品はなかったが、確かに日本画の花鳥風月の影響はある。

 でもそれだけではなくペルシャやイスラム的な図案の影響も色濃く感じられる。

 ヨーロッパ伝統の左右対称の均衡を保った美しさから脱して、アールヌーボーは今までのそういった殻を破り異文化のいろんな型、素材を貪欲に吸収し、自然に立ち返り、かつ斬新で革新的な度肝を抜く様なデザインを競って創り出していった運動の様に思える。

 それは当時普及しはじめた、雑誌や装飾見本集などによってヨーロッパのあらゆる大都市に広がって行った。

 

 19世紀末は急激な人口増加に伴い産業革命の嵐が沸き起こった。

 それによって容易に得られる鉄。又、植民地政策によって豊富に確保できたアフリカからのマホガニー材。

 それらはアールヌーボーの曲線を作り出すには好都合な素材であったのだ。

 庭に出ると個人水族館?や墓までもがアールヌーボーであった。




12.13.14.ナンシー派美術館/水族館?/お墓

 

 明日の「マジョレルの家」の予約をしようとすると「予約はしなくてもその時間 (14:30)か(15:45) に行けば良いですよ。」とのことであった。

 もう一つ市の中心にあるナンシー美術館まで歩いて行って観るのは今からでは無理の様に思えたし、それに少し歩き疲れていたので、ホテル近くのソリュプト地区 [Parc de Saurupt] というところに行ってみることにした。

 

 先ほど観光案内所で貰った地図にはアールヌーボー建築のお屋敷街と出ている。

 地図を頼りに歩いて行きソリュプト地区に着くと観光バスが停まっていて一団の観光客が一人のガイドの説明を受けているところであった。

 僕たちは適当にアールヌーボー屋敷を見て廻った。

 パリのメトロの入口と同じ様な扇型に広がったガラスのひさし。

 蔦が絡まった様なデザインの鉄の珊。

 階段の踊り場のステンドグラス。曲線を多用した窓枠と手すり。

 どれを取ってもアールヌーボーで、ここでも同じ物は二つとしてなかった。

 一軒の前で写真を撮っているとその場に居合わせたその屋敷のご主人がひょうきんなポーズをとりながら「ポーズを取ろうか?」などと言って笑わせてくれる。

 豪邸には似合わず気さくな人が住んでいる様だ。

 ソリュプト地区からホテルまではすぐの距離であった。




15.16.17.18.ソリュプト地区のアールヌーボー屋敷

 

2004/10/02(土)曇り時々晴れ/Nancy

 

 朝、マルシェ(市場)を通り抜け美術館が開く時間にあわせて「ナンシー美術館」[Musée des Beaux-Arts de Nancy] に入った。

 スタニスラス広場に面した古めかしい入口を入ると内装は全くリメイクされたモダンな造りで一瞬、別世界に迷いこんだ様であった。

 

 先ず眼に飛び込んできたのはナンシーにゆかりのサロン画家エミール・フリアン [Emile Friant/1863-1932] 。

 典型的な自然主義の作風であるがナンシー派とも関りがある。

 10数点の油彩はどれも的確なデッサン力と力強い構図、色彩、一瞬を捉えた様な主張を感じるモティーフばかりで年代順に展示されていて変遷がよく判り素晴らしいコレクションであった。


19.20.フリアン(1863-1932)の作品と自画像

 

 その展示の続きにはナンシー生まれのアールヌーボー画家、ヴィクトル・プルーヴェ [Victor Prouvé(1858-1943)] の縦3m横7~8m程の巨大な絵が2点アールヌーボーの額に収まって飾られていた。

21.プルーヴェ(1858-1943)の作品

 

 その裏にユトリロの母・スザンヌ・バラドン (1865-1938) の縦2m横3mの大きな絵。

 それに続いてマネ (1832-1885)、モネ (1840-1926)、エドモンド・クロス (1856-1910)、シニヤック (1863-1935)、ボナール (1867-1947)、マルケ (1875-1947)とナビ派そしてユトリロ (1883-1955) ともう1点、スザンヌ・バラドンが母子仲良く並べて架けられていた。

22.スザンヌ・バラドン(1865-1938) と ユトリロ(1883-1955)

 

 その向かいの壁にはモジリアニ (1884-1920) と藤田嗣治 (1886-1968) が並んでいた。

23.24.25.「アコーデオンのある私の部屋」(130x79)藤田嗣治(1886-1968)/「ブロンドの女」(54x43.5)モディリアニ(1884-1920)/「男と女」(130x79)ピカソ(1881-1973)

 

 デュフィ(1877-1953)やキュビズムの作家たちそれにピカソ (1881-1973) 晩年の作など見応えがあり、しかも観易い展示になっている。

 

 二階に上がるとぐっと時代は遡って14世紀のイコンから始まって、レオナルド・ダ・ヴィンチ (1452-1519) の8号位の小さな油彩人物画と、ティントレット (1518-1594) などのイタリア絵画。

 ルーベンス (1577-1640)、やヤコブ・ジョーダン (1593-1678) などのフラマン絵画。

 そしてドラクロア (1798-1863) へと続く膨大なコレクションが展示されていた。

 そんな中にひっそりと僕の好きなシャルダン (1699-1779) の小さな静物画も1点光を放っていた。

 そしてもう一度1階部分を丹念に観て歩いた。

 別室にコロー (1796-1875) やドービニー (1817-1878) の部屋もあった。

26.「カラスが群れ飛ぶ雪景色」ドービニー(1817-1878)これはオルセー美術館蔵

 

 充分に堪能して出入り口を出て画集などが売られているコーナーでカタログを買った。

 

 そう言えばこの美術館にはドームがある筈。

 それを1点も観ていない。カタログ売場のマダムに尋ねると、「突き当りの階段を降りた地下にありますよ。」と言う。

 大急ぎで引き返して再入場し地下に降りた。

 今日は美術館併設のギャラリーで1950年代の東欧の風刺画家たちの企画展のオープニングでその関係者たちが大勢胸にワッペンを付けてあちこちしていた。

 その関係者が地下室でパーティーをした後、一室でコンサートが行われていた。

 パーティーの後片付けをしている、その脇を通り抜けて唖然とした。

 膨大な数のガラス器の展示室が隠されていたのである。

 あるわあるわドームのガラス器が何百と種類別に展示されていた。

27.28.29.30.地下のドームの展示室/ドームのガラス器

 

 でもここにも「高島北海」はなかった。

 

 「マジョレルの家」[La Villa Majorelle] の14時30分開始にあと30分。ギリギリ間に合う。

 しかし街の反対側。のんびり歩いている場合ではない。大急ぎで歩く事にした。

 「マジョレルの家」には5分過ぎていたが、入口にはまだ人だかりがあって無事に切符が買えた。

 すぐにガイドの説明が始まった。

31.32.「マジョレルの家」の入口で説明をするガイド/全景

 

 外観、塀、門、玄関、1階、3階と丁寧に1時間余りのフランス語のツアーであった。

 アールヌーボーは建築、内装、家具、絵画、ガラス、陶器、彫金などの総合芸術であるから、様々な部分での共同制作がある。

 マジョレル (1859-1926) とドームはかなりの部分で共同制作をしている様である。

 「マジョレルの家」の正面のステンドグラスはドームとマジョレルの合作だとの事であった。

 居間の天井に繋がる壁の部分に狩野派的な花と鶏の絵が描かれていたが、それも残念ながら「高島北海」ではなかった。

 

 その後、再び市の中心旧市街にある「ロレーヌ地方博物館」[Musée Lorrain] にも行ってみた。

 ここにはアールヌーボーはなく、先史時代からローマ彫刻、キリスト教木彫、そしてロココまでの膨大な展示であったが、当然ながら「高島北海」はなかった。

 

 ナンシーの街中にアールヌーボー建築は点在している。

 銀行、商工会議所、ブティックなどとして使われていて、内部を観ることは出来ないが、外観だけでも楽しめる。

 そんな一つアールヌーボーのレストランとして有名な「ブラッセリー・エクセルシオール」[Brasserie Excelsior Flo]の前を通りかかってメニューを見ると「牡蠣」がある。

 毎年フランスに来て牡蠣を食べることを楽しみの一つとしている。

 この際この「エクセルシオール」で牡蠣を食べない手はない。

 そうすればアールヌーボーレストランのインテリアも鑑賞する事ができる。

33.34.35.商工会議所入口/エクセルシオール内部/エクセルシオール外観

 

 ナンシーでは充分アールヌーボーを堪能することが出来た。

 「高島北海」を観ることが出来なかったし、その足跡を感じることが出来なかったのは残念であった。

 いつか機会があれば下関美術館に行って「高島北海」を観てみたいと感じている。

 

026. ナンシー、アールヌーボー紀行(下)へつづく。

 

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