武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

143. 村元武さんとかつ丼の話

2017-05-31 | 独言(ひとりごと)

 村元武さんがたて続けに2冊の本を上梓(じょうし)された。

『プレイガイドジャーナルへの道1968~1973』と

『プレイガイドジャーナルよ1971~1985』

 それはぷがじゃ(プレイガイドジャーナル誌)出版に関する貴重な証言で興味深い。1冊目には僕の名前も度々登場する。僕はぷがじゃには携わっていない。勿論僕の名前はぷがじゃ以前のフォークリポート時代のものである。村元武さんと初めてお会いしたのは1968年頃だったと思う。

 村元武さんとのことを書くにはもう少し古い話から書かなければならない。

 僕は高校時代は美術部で油絵ばかりを懸命に描いていた。年に2回の展覧会が大きなイヴェントで、高校には勉強をしに通うのではなく油絵を描くために通っていた感が否めない。

 高校に入った当初は全校生徒は丸刈りであった。それがすぐに先輩たちの長髪運動によって丸刈りでなくても良くなり僕たちはその恩恵にあずかった。僕は美術部なので絵描きを良いことにそのまま散髪にも行かないで伸ばし放題にしていた。

 ある日、あらゆる西洋音楽に精通していた友人が「武やん、ビートルズみたいやな」と言った。僕は武やんと呼ばれていた。いや今もそう呼ばれている。

 まだビートルズを知る人は殆ど居ない時代である。僕も初耳であった。「ビートルズてなんや」と言ったのを覚えている。その後、ラジオの深夜放送などで度々耳にするようになって、すぐに爆発的に誰でもが知る名前になった。

 東京オリンピックの前の年である。油絵ばかりも良いが一つ記念になることをしようと思い立ったのが、高校2年生、1963年の高校文化祭であった。1年後1964年、「3年生になったら文化祭では僕たちでビートルズをやろう」と言うことになってバンドを組み始めた。すぐにメンバーは集まった。

 でもビートルズのレコードはまだドーナツ版『ラブ・ミー・ドゥ』が1枚しか出ていない時代である。半年後、待ちに待って初めてのLP盤『ミート・ザ・ビートルズ』を手にした時は「よし、いよいよだ」と思ったものだ。そしてそのLP盤全部を自分たちの物にしようと思った。思ったのは良いけれどギターの一番巧い田中繁でさえ、プリーズ・プリーズ・ミイなどの譜面起しはお手上げ状態だった。ツイスト・アンド・シャウトやミスター・ポストマン、シー・ラブズ・ユーなどは何とか出来そうだったが、難しい曲が多すぎた。今までのプレスリーなどとは全然違うのだ。勿論、ビートルズの楽譜などはどこを探しても売られてはいない。

 天王寺にあった楽器店を通じて譜面起こしをしてくれそうな人を紹介してもらった。それが西岡隆さんだった。

 譜面起こしだけではなく高校の講堂まで出向いて頂いて歌唱指導もしてもらった。西岡隆さんは音楽だけではなく絵も描かれるし、デザインもされる。その頃は、アルバイトでジュエリーデザインをしておられた。

 高校に来てもらった帰りには美術部のアトリエも見て頂いた、その時はちょうど高校展に出品の前でベニヤ板3枚ほどの描きかけの大きな絵がたくさん並べられていた。僕と西岡隆さんとはすっかり意気投合していろいろな話をして頂いたが、その後の人生で西岡隆さんの影響は計り知れないほど大きい。

 ご自宅にもよく遊びに行った。西岡隆さんは楽器ならなんでもこなされる。手作りのバンジョーなども弾いてくれた。歌はハンク・ウイリアムスやカーター・ファミリーなど英語の歌だ。僕は一人で聴くのは勿体ないと思い、時々は女子の友達なども誘い出かけた。イノ子やメガネなどだ。イノ子は弾き語りでギターも弾けた。その友人関係でフー子ちゃんも居た。フー子ちゃんは歌もギターも上手なのは知っていたが、イノ子やメガネはたびたび西岡隆さんのご自宅に誘ったがフー子ちゃんを誘うことはしなかった。フー子ちゃんの自宅は遠いからだ。

 女子の友達をたびたび誘って行ったからか、女の子にも判りやすくと思われたのか、西岡隆さんは日本語の歌を作られていた。それが『遠い世界に』や『雨よいつまでも』だった。『遠い世界に』を初めて聞いたのは恐らく僕だ。

 文化祭のビートルズも無事終ったが、そのままバンドを引きずって数度のダンスパーティなどを催したりして、僕は進学も就職も念頭になく、何となく卒業ということになってしまっていた。

 卒業と同時にバンドは解散。バンドのメンバーたちも同様でそのままプロのバンドマンになった人も居るが、仕方なく急遽、自衛隊に入隊した友人も居た。

 僕は天王寺美術館の地下にあったデッサン教室に籍を置いたがガランとしたところで他には誰もいず、何となく不安な日々を送っていた。そしてジャズが好きだったこともあり、道頓堀にあったジャズ喫茶『ファイブ・スポット』で喫茶バーテンダーのアルバイトをしていた。

 ある日、元バンドのメンバー田中繁がファイブ・スポットにやってきて「今夜、ダンスパーティで演奏するから歌いに来ないか」と誘ってくれた。仕事が引けてからその会場に向かい2~3曲を歌った。そのロックバンドのリーダーは田中繁でサイドギターはイノ子が担当していた。

 そのロックバンドの合間にその頃流行りかけていたアコースティックのフォークバンドの演奏があった。PPMスタイルのバンドである。そのボーカルにフー子ちゃんが居た。中川砂人さんがギターを弾いていた。中川砂人さんとお会いしたのはその時が初めてだった。僕はフー子ちゃんに「へぇー、いまこんなんやってるの」と言った。そして「こんなんやったら巧い人知ってるで~」とも言った。西岡隆さんのことである。それから暫くして西岡隆さんにフー子ちゃんと中川砂人さんを紹介したことになる。

 僕はその後、大阪芸術大学油彩科に入学していた。高校を卒業して2年後である。西岡隆さんとフー子ちゃん、中川砂人さんたちは『五つの赤い風船』という名前でヤマハライトミュージックコンテストで2位になった。と僕は風の噂で聞いていた。

 そして『五つの赤い風船』はプロとしての活躍が始まっていた。暫くたったある日、『五つの赤い風船』のメンバーたちと会った。その時、西岡隆さんから僕に「『五つの赤い風船』に入れへんか?メンバーがもう一人居てもええねん」という話があった。僕は大阪芸術大学に高い入学金を払って入ったばかりだし、何よりもギターは下手だし、プロとして歌を歌うことに自信がなかったのが本音だと思うが「僕は絵描きにならなあかんから、歌なんか歌ってられへんねん」と冗談を交えたつもりで断った。随分失礼な断り方だが、西岡隆さんと僕は若かったし何でも冗談を言い合える仲であったと思う。

 又、暫く経ったある日、西岡隆さんから電話があった。「歌はあかんでも、雑誌のレイアウトなら将来の美術の勉強にもなるし、やれへんか~」と話があった。西岡隆さんが所属する事務所で会員向けの月刊誌『フォークリポート』というのを出版するのにアートディレクターが必要だとのことであった。「それなら大学に行きながらでもできるし」と勧めてくれたが、それにも僕は自信がなかった。西岡隆さんは「僕が教えるから、言うとおりにやれば出来るがな~」との話だったので、僕はやってみることにした。事務所に行き、社長の秦政明さんに紹介されたが、入った時には創刊号が半分は出来ていた。

 そもそもこの月刊誌『フォークリポート』は西岡隆さんと松山猛さんが言い始めた雑誌らしく、僕が思うに西岡隆さんと松山猛さんの個性がぶつかり合い、意見がなかなか合わず、松山猛さんも東京で大手の魅力あるところからのオファーもあり、東京に行ってしまったため、僕にその仕事が回ってきたのだと勝手に思っているが違うかも知れない。

 でもいざ始めようと思っても、「僕が教えるから」と言っていた西岡隆さんはみるみる忙しくなっていき、全国を飛び回って大阪に居ることも少なく、何しろ年間180回ものコンサートをこなすほどになっていた。関西フォークブーム到来である。

 事務所ははじめ高石事務所といった。事務所には『帰ってきたよっぱらい』のフォーククルセダーズとそれから波状したはしだのりひこと『シューベルツ』、高石友也、岡林信康、高田渡、中川五郎、遠藤賢治、ジャックス、五つの赤い風船、六文銭、その後の『ハッピーエンド』などが居たし、その他、数えきれないほどの歌い手がいた。事務所はその後『音楽舎』と改めたが、僕の所属は『アート音楽出版』である。事務所は『音楽舎』『URCレコード』そして『アート音楽出版』の3つの名前を持っていた。

 僕は西岡隆さんの教えがないまま途方に暮れながらも何とかこなしていた。

 そんな時、労音で分裂があったらしく、労音から事務所に一人と編集部に一人が来てくれることになった。

 編集長として来てくれたのが、労音で機関紙などの制作の経験のある村元武さんである。秦政明社長から村元武さんを紹介された。

 僕は「しめた、助かった。」と思った。

 フォークリポートは西岡隆さんの意向でオフセット印刷ではなく凸版印刷で本格的な雑誌作りを目指していた。印刷会社は僕が当初に探してきた印刷会社であるが、創刊号は別の印刷会社でオフセットであった。オフセットとは違い、第2号からの凸版印刷はレイアウトにも制限がありなかなか難しいのが現実だ。

 村元武さんは僕より少し上の年齢だが、その当時は随分上に感じていた。なにしろ僕は未だ19歳そこそこだったし、僕は経験豊富な村元武さんに絶対的な信頼を置き始めていた。村元武さんは編集だけではなくレイアウトや写植の貼り方など、勿論、校正の仕方、何でも出来たし、教え方が巧かった。話し方はぼそぼそと耳を側立たせなければ聞き取れないほどで多くは語らないのだが、何事についても教え方が巧かった。

 事務所は大阪北区兎我野町、あの太融寺の裏手の裏びれた6階建ての小さなビル、山安ビルにあった。5階には山口組が入っていて金色の菱形の代紋が輝いていた。高石事務所は3階にあってフラットを全部使っていた。最初は編集部の部屋はホリプロの大阪事務所になっていて、ホリプロが引っ越して行った後、高石事務所がフラット全部を使うことになって、ホリプロ後を編集部が使うことになった。営業部とは別れ、別の個室があてがわれたわけである。そんな時、村元武さんが入ってこられたのであったと思う。

 山安ビルの筋向いにアカシヤという洋食屋があった。昼飯を食べによく行ったが、やはりたびたびでは飽きる。

 ある日の昼時、近くのビルの1階に暖簾がかかっていた。普段は割烹で昼間はやっていないところである。ランチでも始めたのかなと入ってみた。村元武さんと僕と後の僕の妻になる大学同級生の岡本睦子の3人である。岡本睦子も写真や校正などをアルバイトとして手伝っていた。その3人がフォークリポート編集部員であった。

 今では割烹がランチをやったり、喫茶店がランチをやったりは珍しくもないが、その頃は割烹がランチをするのは珍しかった。

 暖簾をくぐって3人は入った。「いらっしゃ~い」と愛嬌の良いずんぐりとした男が出てきた。いかにも板前さんだ。「なに~、しましょ~」と言う。村元武さんが「何が出来ますか~」と聞くと「さあ~」と言って首を傾げる。そして「何でも言うてみてください」という。村元武さんが「そしたら、かつ丼」。板前さんは「かつ、どん?」と微妙に間を空けて言った。「かつ、どん、とはどんなもんですか~?」と言った後「作ったことも食べたこともないのですが~。どんなもんですか~」と再び首を傾げた。今ではかつ丼を知らない人は恐らく皆無だろう。その頃は知らない人が居ても可笑しくはない時代であったのかも知れない。

 村元武さんはぼそぼそと説明し始めた「先ず、トンカツを揚げて、どんぶり飯の上にそれを乗っけて、別にスライスした玉ねぎを甘辛いだしで煮て、卵で綴じて、どんぶり飯とトンカツの上からぶっかける。そんなものです。」「はい~、やってみます。少々お時間を下さい。」と言いながら調理場へ下がった。「いや~、変なとこに入ってしもたな~。ランチは慣れてないんやな。まっ、ええか、この際ここで編集会議でも始めよか。」ととと、と思う間もなく、さすが料理のプロ、いかにも手際よく作られたのであろう。『かつ、どん』が3っつカウンターの上に並べられた。村元武さんの言葉にもなかった青ネギの笹切りなども飾られて、見るからに立派なかつ丼である。そして見栄えだけではなく、その旨かったこと、旨かったこと。本当に旨かった。

 もう一度入ってみようと思い、その後はたびたびその前を通ってみたが昼時に暖簾が出ていることは残念ながら二度としてなかった。

 それから半世紀が過ぎようとしている。が、その後、その時のかつ丼を超えるかつ丼には、僕は一度もお目に掛れていないでいる。

 村元武さんの教え方の巧さを物語っているエピソードとしては少々横に反れてしまったが、その頃に村元武さんから教わった数々のことは、僕の人生の中で生かされているのは間違いのないことである。そして僕と西岡隆さんや村元武さんとの交流は今なお続けさせてもらっている。

 労音時代、フォークリポート時代の僕。そしてぷがじゃの時代、更にその後の時代に村元武さんから教えを乞うた人は数多く居られるのだろうと思う。そんなことを思いながらこの2冊の本を読みたい。VIT

 

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