ここ数年、ユーロ高でポルトガルの物価もかなり高騰したと感じていた。
それがこのところ長いトンネルから抜け出したかの様に、少し円高、ユーロ安に振れている。
どのあたりで落ち着くのか、毎日ニュースの為替レートをみてはその動向に無関心という訳にはいかない。
10円の差、5円の差でも生活物価に大きくかかわってくる。
ヨーロッパ統一通貨「ユーロ」が導入されたのが2002年1月1日。
以来、今ではあたりまえのごとく使っているが、我々にとっては便利になったものだ。
ヨーロッパ域内では殆ど両替の必要はなくなった。
以前はスペインに行くにも、フランスに行くにもエスクードからペセタやフランに両替をしなければならなかった。
ポルトガルとスペインでは銀行の営業時間も異なり、戸惑ったり、待たされたり。
幾つものビニール袋に各国通貨を小分けして旅行したこともあった。
今の便利さは単一通貨ユーロに加えて、どこでもここでもクレジットカードが使える。
我々が最初海外に出た頃は円と米ドルは固定相場制で1ドル360円の時代であった。
しかも外貨持ち出し制限までもがあった。
それがヨーロッパを旅行中に変動相場制に移行して、みるみる250円程に落ちた。
落ちた。と言っても旅行中はニュースもなく殆ど気が付かなかった。
幸い日本から持ち出したドルは使わないで済むほどスウェーデン・クローナを稼ぐことが出来たから気にもならなかったのだが…。
その頃、ヨーロッパを旅行するのにスウェーデン・クローナをそのまま持ち歩いていた。
ヨーロッパでスウェーデン・クローナはどこでも威力を発揮した。
共産圏東欧でもクローナから両替した。
スウェーデンの南端イスタッドからフェリーで1晩揺られるとポーランドのシチェチンに着く。
フェリーから降り、税関を済ませ、走り出して暫くすると1台のクルマが追いかけてくる。
「両替してくれ~」と言ってクルマを停めさせる。
今から考えると恐ろしいことだが、僕たちも若く怖いもの知らずだった。
それに平和な時代だった。少なくとも今よりは…。
スウェーデン・クローナが公定レートの5倍にもなった。
ブラック・マーケットだ。
その頃は共産圏を旅行する場合、その日数に応じて強制的に両替が必要だった。
1日、一人10米ドル分。それをポーランド・ズロチに両替しなければならない。勿論公定レートである。
10ドルあればそれ以上必要はない。それが学生なら1日3ドルで済む。
僕たちはストックホルム大学の学生だった。
3ドルではお土産は買えない。足りない分を両替する。
銀行で両替すれば公定レートなので旨味はない。
クラクフの広場にも闇の両替屋は出没していた。
ブラック・マーケットでの両替なら5倍だから物価は5分の1になる。
それでなくとも安い物価がタダ同然になる。
ポーランドには革製品など上質なものがたくさんあった。
共産圏ブルガリアからトルコへ入った。
トルコでも闇の両替屋が暗躍していた。
「ここではブラック・マーケットはなく、気をつけないと偽札を掴まされる。
或いは強盗に早替わりする。」などと教えられた。
イスタンブールでぐずぐずしている内に「キプロス島で戦争が始まりそうだ。」というニュースが耳に入った。
「トルコとギリシャの国境線でも戦争に発展するかも知れないぞ~。」と言ったものだった。
急いでギリシャ国境を抜けようと思った。
日が暮れたので国境手前、トルコ側のキャンピング場で泊った。
往きにも泊ったキャンピング場だったから勝手も知り安心していた。
夜遅くなってから、その国境に向ってトルコ軍の戦車が大挙つめかけていたのをキャンピング場から眺めていた。
夜通し戦車の行くギシギシギシギシギシというキャタピラの音が絶えず、恐らく100両以上は集結していた。
朝、見てみると戦車を草木などでカモフラージュして臨戦態勢なのだ。
そんな戦車隊を尻目に大急ぎでトルコ・ギリシャの国境を通過した。
でも銀行も両替所も何もかも閉鎖されていて、僕たちには1円分のギリシャ・ドラクマもなかった。
国境から出来るだけ遠ざかろうと走るが、そのところどころで停車を命じられた。
対向するギリシャ戦車の車列を通すためにだ。
トルコ戦車の大型で精悍なのに対してギリシャ戦車のひ弱なこと。おまけに兵隊のにやけた面持ち。
ヘルメットを仰ぎめに被り、ロングヘアーを風になびかせ、すれ違う僕たちに対してVサインを投げてよこす。
「これでは勝ち目はないな~」などと思ったほどだ。
村々を通過する時には村人たちは殺気立ち、パン屋は焼きたてのパンを戦車に向って放り投げ。
いかにも貧しそうな老人までもが、なけなしの持ち金をはたいてタバコを買い求め、1箱ずつ戦車に投げ与えてやるありさま。
一方我々はお腹が空いても食料を買うギリシャ・ドラクマがなく、ガソリン・ゲージもだんだん低くなり、これほど侘しかったこともなかった。
暗くなりヘッドライトを点けるとどこからか大声で怒鳴られるし、仕方なくエイヤッとホテルに部屋を取った。
ドラクマがないことを言わずにだ。
翌朝、事情を話した。
スウェーデン・クローナで支払いが出来た時は本当に助かった。
しかもおつりはドラクマでもらって、食事もできた。
そうこうしている内にキプロス紛争はひとまず終結した。1974年夏の出来事だった。
そのキプロス島は南北が分断されたまま、未だに問題は解決していない。
解決されないまま南キプロスでは2008年1月1日からユーロが導入されているらしい。
アルゼンチンはブエノスアイレスでもブラック・マーケットがあった。
共産圏ほど何倍もの率ではなかったが、両替屋の出没する広場に足繁く通いレートの交渉だ。
そのために時間を費やして肝心の観光がおろそかになってしまっていた。
ブエノスアイレスを出て南下、すぐに軍事クーデターがあった。
夜行バスから何度も降ろされ自動小銃を突きつけられ、ホールドアップをさせられボディチェックを受けた。
初めは山賊かと思い生きた心地はしなかった。
南米ではそれぞれどこの国もしわくちゃでよごれて汚いお札だった。
しかも小額紙幣は10円、20円ほどのものだった。
日本では少し前に100円紙幣の板垣退助が姿を消して硬貨になっていた。
でも南米では1泊200円ほどで泊れる宿もあったのだから小額紙幣でも使い出はあった。
バリ島では古い絣(かすり)染めの布などを買いたいと思い、10万円ほどを両替したが、インドネシア・ルピアがリュックいっぱいにもなって驚いたこともあった。
両替屋からの帰り道、よくひったくられなかったものだと今になってゾッとしている。
当時ポルトガルでも100エスクード札などはしわくちゃで汚かった。
まだポルトガルに住み始める以前、毎年1ヶ月間、旅行に訪れていた頃の話だ。
余ったエスクードは保存しておいて次の年持参した。
コーヒーを飲んで100エスクード札で払おうとすると「この札はどうしたのか?」と驚きの眼で見られた。
1年の間に100エスクード札はすっかりなくなり、全て硬貨に代っていたのだ。
カフェの主人は「コレクションするので~」と、それで支払いができたが、たった1年の経過なのにものすごく懐かしそうにその100エスクード札を眺めていたのが印象的だった。
両替屋はセトゥーバルには今でも存在する。
やはりかつてに比べれば暇なのだろう。
あまり旅行者が利用しているのを見たことがない。
他のヨーロッパからの旅行者にはもはや不要な所なのだ。
先日、我々が日本円との両替率を尋ねてみようと入っていくとすこぶる愛想が良かった。
日本人観光客は上得意に違いない。
ネットでの率に比べるとまだまだユーロが高かった。手数料がたっぷり上乗せされているのだろう。
ユーロが導入されてクレジットカードがどこでも使えて以前に比べると格段に便利になった。
でも以前の不便さも、それがかえって旅の醍醐味だったような気もする。
アセアンは今、ユーロ圏に習ってアセアン統一経済圏構想を打ち出している。
昔も、今も、そして今からも、時代は目まぐるしく代っていく。
VIT
(この文は2008年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)
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