先日、一度に4人もの日本人学者がノーベル賞を受賞した。
日本人にとってこれほど嬉しいニュースはないし、久々の明るいニュースに心躍らされた。
その内のお二人、小林博士と益川博士のコンビはそのユニークな言動にニュースになることもひときわ多かったし、又、下村博士の蛍光くらげの話も面白かった。
僕にとってはストックホルムでの授賞式など、懐かしい風景がたびたびテレビ映像に登場したのを楽しんでいた。
僕たちが海外で最初に住んだ町はストックホルム。
そのTセントラレン(中心駅)からトンネルバーナ(地下鉄)で南西に4つ目の、シンケンスダム(ZIKENSDAMM)という駅。駅から歩いて僅か2~3分。
ノレェン家という大きなお屋敷。主たる部屋には家主である、ノレェン夫人と若夫婦が住み、2階の広間は時々パーティ会場として貸して、その他の有り余る部屋を間貸ししていた。
我々が最初住んだのはその1階部分の1部屋。他にもギリシャ人の夫婦やフランス語教室の先生をしていた独身のフランス人女性などが間借りしていた。トイレ、シャワー、洗濯場、台所は共同。バスタブはなかった。
部屋の窓からはメラレン湖が真下に広がり真正面の対岸にはあの市庁舎、ノーベル賞の晩餐会が行われるスタッド・ヒューセット(市庁舎)があった。
部屋の窓のすぐ前は公園になっていて家族連れ、犬連れで散歩に来たり、夏には水着になって芝生に寝転んだりといった市民憩いの場所。澄み切った空気、匂い、音その全てが日本のものとは僕には違ってみえた。
お屋敷の丁度向いに地域のシンケンスダム教会の鐘楼が聳え、日曜日には鐘の音が鳴り響いた。鐘の音を聴きながら「ああ、ヨーロッパに住んでいるのだ」などと感慨に耽ったものだ。
仕事が休みの日その公園からスケッチもした。
ある日、そのスケッチ数枚を市庁舎の庭木に押しピンで留めてみた。その1枚がすぐに売れた。
買ってくれたのはスウェーデン人の上品な感じの婦人だった。団体観光旅行でどこか地方からストックホルムに出て来たグループの一人だった様で、団体行動の途中だったからか大急ぎで買ってくれた。
僕は何だか恥かしくなって他のスケッチの押しピンを外し、逃げるようにして市庁舎を後にしたのを憶えている。恐らく僕の生涯で最初に買って頂いた絵がそれだ。
初めに住んだのは1階だったが、次にストックホルムに戻ってきた時、大家さんがそれまで住んでいた3階の屋根裏部屋を僕たちに提供してくれた。たぶん赤ん坊が生れてその屋根裏部屋では狭くなったためだろう。そこには小さいながら台所とトイレ、シャワーも付いていた。斜めに付いた二重窓からも正面に市庁舎が見えた。寝ながらにして月や星が見えたし、冬には雪が被った。まるで映画か童話にでも出てくる様な、僕にとっては夢の様な屋根裏部屋だった。春にはお屋敷の前庭のサクランボの木にびっしりと実がなった。
トンネルバーナに乗れば4個目の駅だが、マリア・トリエ(マリア広場)、スルッセン(連結場)、ガムラ・スタン(旧市街)と町並みを楽しみながら歩けばTセントラレンまでもそれほど遠くはなく歩ける距離だ。
Tセントラレンからドロットニング・ガータン(王妃通り)を少し上ればコンサート・ホールはすぐ傍だ。
ドロットニング・ガータンにはストックホルム大学に通っていた時の教授・ロセェン先生のアパートがあった。何でも昔の著名な作家の住まいだったそうで階下は図書館になっていた。とにかく由緒のある家で500号くらいの大きな歴史画的な油彩が居間の壁に張られ、やたら部屋数が多かったのを覚えている。
コンサート・ホールはノーベル賞の授賞式が行われるところとして有名だが、コンサート・ホール前広場にはいつも果物などの露店市が出ていたし、その隣のエスカレーターを下ると公設市場になっていて、僕たちも時々鯖などを買いに出かけていた。
近所のスーパー・コンスン(KONSUM)では魚といえば、ニシンかウナギの燻製か瓶詰め酢漬けのシル(イワシの一種か)くらいしかなかったからだ。
僕たちもコンサート・ホールにはたびたび出かけた。
授賞式ではなくてコンサートを見にだ。そこでマイルス・デイヴィスやデューク・エリントンも見たし、ジュリエット・グレコも見た。演目は忘れたがクラシック・バレーを見たこともあった。
コンサート・ホールのすぐ裏手にあったロシア料理店で皿洗いのアルバイトをしていたこともある。
以前に働いていた、百貨店エンコ(NK)前にあったリラ・ショペンハムン(小コペンハーゲン)という名前のレストランと比べれば100分の一暇な店で、大学のノートを開いてウエイトレスからスウェーデン語の判らないところなど教わったりもしていた。コックはトナカイ料理やロシア風じゃがいもの焼き方など僕に教えてくれた。
そう言えばリラ・ショペンハムンでは僕もコックをしていたが、スウェーデン人のコックは1人も居なくて他のコックも全員が外国人だった。
シェフがギリシャ人のコンスタンティン、副シェフはポーランド人の亡命者。平コックもユーゴ人やオーストリア人そしてポルトガル人のルイス。お客が一時にたて込んで猛烈に忙しくなるとコックたちと言えどパニック状態に陥る。そんな時、手が早くがぜん能力を発揮したのがルイスと僕だった。
そのレストランのメニューに「牛フィレのマデイラ・ソース和え」というのがあった。
ソースを仕込む時、伝票を書いてカウンターからその分量のワインを貰うのだが、経営者側はマデイラ・ワインは高価なので安いワインで済ませようとする。
そうするとルイスは店中に響き渡る大声を張り上げて「これはマデイラではな~い!」などと言い張っていた。
「ルイスは今どこで何をしているのだろう。」などと時たまふっと思ったりする。アゼイタオンの露店市を歩いていても「あれはもしかしたらルイスでは?」などと思うことがある。似ている顔つき体型はセトゥーバルにはよく居るのだ。
ノーベル賞の晩餐会ではセトゥーバルの「モシュカテル・セトゥーバル」が供されるとのことだ。モシュカテル・セトゥーバルはアゼイタオンで作られている。
王妃の隣に益川博士が座られたが、モシュカテルを味あわれたのだろうか。
ノーベル賞を授与されたグスタフ国王が国王に即位した時、僕はちょうどリラ・ショペンハムンのキッチンでコックをしていた。キッチンのテレビにその様子が中継されていたのをマネージャーのアンダション氏が見てうれし涙を潤ませていた。アンダション氏にしてみれば、グスタフ国王が生れた時からずっと見てきたに違いない。アンダション氏もお元気だろうか?
あの頃はまだ独身で即位されたのだが、グスタフ国王も随分お歳を召されたものだ。
市庁舎を更に下った警察本部と港に近いところにあった「シントラ」というバーでアルバイトをしていたこともあった。
若い荒くれの船員たちが大勢たむろする店で僕はお客が飲み終わったビア・ジョッキを片付けて洗うだけの夜中の仕事。
その頃は知らなかったのだがシントラはポルトガルの地名だ。バイロンはかつてシントラのことを地上の楽園「エデンの園」と讃えた。
ストックホルムのシントラでは腕に刺青のある、まるでポパイとブルートの様に、荒くれの客同士で殴り合いが絶えなかったし、それを取り巻く若く美しい女性たちも酔ってテーブルに乗りストリップを始めたりと…。
その殴り合いやストリップを止めに入るのも僕の仕事?だった。
今から思うと、僕の人生の中で後にも先にも考えられない別世界の空気が漂っていた。
ある意味で「エデンの園」であったのかも知れない。
僕は1度しか行ったことがなかったが、ガムラ・スタンに「ボバデラ」という名のディスコがあった。日本人のたまり場で通称「お寺」と親しまれていた。
そのお寺で知り合ったスウェーデン人女性とその後結婚して、2人の子供をもうけ、子供も成人し、今も尚ストックホルムに住んでいる日本人の友人がいる。
僕が東京表参道で個展をした時、たまたま彼も帰国中で個展会場を訪ねてくれ旧交を温めた。その彼が彼女と出会ったボバデラもポルトガルの地名だ。
その頃には、僕が将来ポルトガルに暮らすなどとは夢にも思わなかったことなのだ。
今、セトゥーバルの下町、アヌンシアーダ教会の鐘の音を遠くに聞きながら、懐かしいシンケンスダム教会の鐘の音がオーバーラップして僕の心に響き渡る。
あれから30数年、毎週日曜日には休むことなく鳴り続けているのだろうか。
VIT
(この文は2009年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに転載しました。)
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