切上り長兵衛を追善供養した浜井筒屋は、銅を運ぶ船の船主であることがわかったが、このことと、位牌をお祀りしてきた加藤敏雄家の関係を明らかにしたい。
芥川三平は、「実は加藤家は昔から慈眼寺の檀家である。御代島城の加藤御三家子孫である。」と書いている。1) 芥川三平(正岡慶信)氏も加藤敏雄氏も故人となられているので、これ以上の情報はとれない。
船と加藤御三家(加藤民部正、彦右衛門、清太夫)とのつながりを探していたら、御代島城主の加藤民部正(かとうみんぶのしょう)は、金子備後守元宅の船手であることに気が付いた。2)船手は水主や船舶を統括管理した。そして天正の陣で金子元宅の水軍の将として戦った。加藤家と船とは非常に強い関係があることがはっきりした。また江戸時代の西條藩の新居浜の水主の多くは、加藤民部正の旗下の子孫と伝える。2) 加藤民部正は庄内で討ち死にし(天正13年(1585)7月17日没)、その地に祀られて、民部さん(民部神社)がある。写真) お守りしている脇の加藤氏に伺ったところ、天正の陣後、ずっとここに住んで10代目であるが、先祖が船に関係していたと聞いたことはないとのことであった。加藤敏雄氏のご親戚に(2019.7.1訂正)御先祖は船に関係があったのではないかとの問いには、聞いたことがないとのことであった。
一方、明治5年(1872)の新居浜浦の船持調書によれば、5反帆以上の船が合計30艘あり、その1/3の10艘の船主の姓が加藤であった。7)やはり加藤姓と船との関係は強いことがわかった。しかし、この中に、加藤敏雄家の先祖が含まれているかどうかは、わからない。
筆者の気ままな推理は以下のとおりである。
船手であった御代島城の加藤御三家の子孫である忠七は、別子銅山が開坑した元禄には廻船を手に入れ、宝永6年(1709)には新居浜口屋と大坂泉屋に出入りしていた。宝永5年(1708)に切上り長兵衛が四国を離れた所で亡くなったことを聞いていた。享保~寛延~宝暦では、船主としてだけではなく、船問屋を経営し、その屋号を泉屋の井桁紋にあやかって井筒紋の新居浜井筒屋とした。新居浜井筒屋忠七船が別子立川銅山の荒銅を積んで大坂に行く途中、宝暦6年9月16日に兵庫沖で大風雨にあい難船、打荷し、その事後処理に泉屋や役人が多くかかわる事件があった。処理後、泉屋と井筒屋は相図り、翌年の宝暦7年(1757)に切上り長兵衛の50回忌供養を慈眼寺で執り行った。
切上り長兵衛が四国を離れる時や遺骨となって戻ってきた時に世話をしたのも浜井筒屋ではないかと想像する。
この推理を確かものにするには、以下のことなどを調べる必要がある。
① 加藤敏雄家の過去帳、系図、繰り出し位牌などを調べさせていただき、ご先祖に忠七さんを見つける。
② 寛延元年(1748)大島浦廻船石数改帳と同時期の新居浜浦廻船石数改帳等の古文書を探し、井筒屋、忠七、加藤などの名を見つける。
このような推理の基になった新居浜の海運業の歴史と廻船・船主の情報を以下に記す。
新居浜の海運業の歴史
黒川裕直によれば以下のとおりである。3)
「新居浜に於ける海運業は大島にては非常に古く、南北朝地代から海賊衆となって海を舞台に活躍したが、本当の意味での海運業は太閤の朝鮮の役(慶長3年(1598))後に同役に使った大船を附与され、これを商船に改造して廻船業をはじめたと云われ、新居浜に於ける海運業は大島廻船によって始まったとの事である(ブログの筆者は、この記述の妥当性を未確認)。新居浜ではそれより遅れ、寛永年間(1630年頃)立川銅山口屋が出来、(この記述の妥当性も未確認)また下って元禄15年(1702)から別子銅山口屋が設けられた。これは船宿と廻船問屋の機能をかねたものだったが、住友私設で一般には利用出来なかった。塩、米、竹皮、海産物を大坂、九州方面等へ輸送する廻船が入港し、小さいながら湊としての船宿(出入り船舶に対して一種の行政権を持つと共に、船員宿泊所と倉庫業を兼ねて居た)や廻船問屋(移出入貨物の公認斡旋所で船宿業者が荷物手形を発行した)があった。
西條藩では番所を大島浦・新居浜浦・西條喜多浜・氷見宮の下の4ヵ所に置き、代官所に所属する川口番人を世襲任命し、往来船の取調べや難破船の取扱いをした。新居浜番所は中須賀埠頭にあり、番人荒井氏が番所の水主と主に海上の見張りをした。航海船舶は御朱印の他に海上往来手形を要した。航海者所在の大庄屋がこれを作成し、船籍・帆端・乗組員数・積荷目録・航海目的が記載されている証明書であって、船の出入通過の際番所役人に提示することになっていた。
宝暦13年(1763)の吟味惣改帳によれば、新居浜浦には小廻船20艘と漁船93艘があった。一般船問屋は文政10年頃(1827)までは、新居浜浦鍋吉なるものが経営していた。
また「えひめの記憶(愛媛県史)」には以下の記述がある。2)
西条藩では公認の船宿は大坂宿と呼ばれ、新居浜・大島・松神子津口・黒島の4港に置かれた。特に大島浦は、地乗り時代の近世初頭では、大坂商人の商活動の根拠地となり地方屈指の商港であった。寛文10年(1670)には船28艘分の大坂宿銀363匁を上納し、水主は本浦に237人、黒島128人がおり、うち109人は他国者であった。数百石積の大船を有していた。黒島は多喜浜塩田開発後に塩問屋が置かれて、尾張・伊勢・三河・遠江・阿波なとから塩買船が入港した。
新居浜浦は元禄15年(1702)に別子銅山口屋が埠頭に置かれて発展した。大坂へ通う銅船(300石)中型廻船(100石)と地廻りの小廻船(50石以下)があり、宇摩・道前・美作などから銅山買請米を積む廻船が入津した。松神子は宝永4年(1707)に船問屋が置かれ、特産である素船が入津した。同藩の寛延ごろの帆別銀は1反当たり銀1匁で、7反帆以下は不要であった。
新居浜の廻船・船主の記録
1. 寛文7年(1667)「西海巡見志」によれば、保有する廻船数は以下のとおりである。4)
大島浦+黒島浦 ・300石積~200石積 17艘+6艘=23艘
新須賀村+新居浜浦 ・250石積~90石積 6艘+11艘=17艘
2. 寛文10年(1670)大島浦指出帳によれば、以下のとおりである。5)
大島と黒島合わせて大船(廻船)が28艘あった。(石数は筆者の推定)
・16端帆(300石積) 2 七右衛門船、三右衛門船
・15端帆(250石積) 4 長右衛門船、長右衛門船、李右衛門船、六兵衛船
・14端帆(200石積) 2 伝兵衛船、八兵衛船
・13端帆(175石積)7 喜兵衛船、弥三兵衛船、庄屋右衛門船、権右衛門船、伝兵衛船、君右衛門船
・12端帆(150石積) 2 伝右衛門船、八兵衛船
・11端帆(125石積) 6 五兵衛船、清右衛門船、小右衛門船、伝右衛門船、竹兵衛船、源兵衛船
・10端帆(100石積) 4 庄右衛門船、判右衛門船、七右衛門船、源右衛門船
・8端帆(45石積) 1 与兵衛船
16~11端帆の20艘は、主に北国運賃米積に使われ、残りの船は、材木を松山から播州、佐伯、日向から播州に運んだ。船名は、名だけで、姓(苗字)はわからない。
3. 寛延元年(1748)大島浦廻船石数改帳によれば、大島浦と黒島の廻船は20艘で、以下のとおりである。6)
・850石積 大島浦船主 村上庄左衛門船 沖船頭吉蔵
・900石積 同人船 沖船頭左次兵衛
・780石積 同所 由左衛門船 沖船頭吉兵衛
・900石積 同人船 沖船頭久兵衛
・850石積 同所 清右衛門船 沖船頭長四郎
・460石積 同所 重郎兵衛船 沖船頭
・770石積 同所 六郎兵衛船 沖船頭伊兵衛
・400石積 同人船 沖船頭伊右衛門
・860石積 同所 弥一右衛門船 沖船頭五兵衛
・520石積 同人船 沖船頭市左衛門
・500石積 同人船 沖船頭儀左衛門
・800石積 同所 与助船 沖船頭弥次郎
・550石積 同所 五郎右衛門船 沖船頭直三郎
・800石積 同所 九郎左衛門船 沖船頭直三郎
・650石積 同所 伊兵衛船 沖船頭惣吉
・730石積 同所 徳兵衛船 沖船頭利助
・800石積 同所 与兵衛船 沖船頭儀
・450石積 同所 与兵衛船 沖船頭四郎兵衛
・800石積 黒島 惣兵衛船 沖船頭茂左衛門
・900石積 同所 常右衛門船 沖船頭直乗り
寛延元年(1748)辰10月 与州大島浦庄屋 村上庄左衛門
同浦年寄 小右衛門
黒島年寄 五兵衛
同断 次郎兵衛
薩摩屋半右衛門殿
淡路屋長左衛門殿
伊与屋左次兵衛殿
この文書は大島浦から大坂の船問屋に宛てたものである。米をはじめとして各地の産物が江戸、大坂を中心に集積された。大島浦の海運業が非常に栄えていたことがわかる。
4. 寛延元年(1748)頃の新居浜浦廻船石数改帳等
別子銅山の銅や米などを運んだのであるから、記録文書はあるはずであるが、筆者はまだ見つけていない。
注、引用文献など
1. 芥川三平 「瑞応寺西墓地の怪(下の四)」新居浜史談347号p16(2004.7)
2. データベース「えひめの記憶」>愛媛県史近世下(昭和62.2.28発行)>海上交通①
3. 黒川裕直「新居浜港を中心とした海事史話」p1(昭和39.7.20 1964)
4. 幕府巡見使 川口孫兵衛・藤堂勝兵衛・堀八郎右衛門ら「西海巡見志」寛文7年(1667) 伊予史談会双書第11集p28 (伊予史談会 昭和60.7 1985)
5. 黒川裕直編著 「予州新居浜浦」p4(昭和50.1 1975)
6. 古文書集編集委員会編(委員長 池田寅雄)「古文書で探るふるさと新居浜」p33(新居浜市教育委員会 平成4年 1992)村上文書
7. 黒川裕直編著 「予州新居浜浦」p132(昭和50.1 1975)
明治5年(1872)諸願留より 船持調書 新居浜浦
5反帆以上の船が合計30艘あり、その1/3の10艘の船主の姓が加藤であった(以下抜粋)。
14反帆 200石積 4人乗 沖船頭 明星蔵 住吉丸 加藤徳太郎
8反帆 40石積 2人乗 自分乗 有尚丸 加藤重造
8反帆 45石積 2人乗 沖船頭 白石春太郎 喜徳丸 加藤喜平
6反帆 20石積 2人乗 自分乗 喜徳丸 加藤仙助
7反帆 45石積 2人乗 自分乗 三穂丸 加藤芳造
7反帆 45石積 2人乗 自分船頭 長者丸 加藤庄兵衛
9反帆 75石積 3人乗 自分乗 住吉丸 加藤庄作
6反帆 20石積 2人乗 御代丸 加藤茂吉
6反帆 20石積 2人乗 自分乗 御代丸 加藤政右衛門
7反帆 45石積 2人乗 自分乗 宝栄丸 加藤覚蔵
写真. 加藤民部正をお祀りした民部神社と明治16年末秋(1883)に建てられた300回忌供養の常夜灯 竿石正面に「金毘羅宮 奉燈」の刻字あり(新居浜市庄内)
芥川三平は、「実は加藤家は昔から慈眼寺の檀家である。御代島城の加藤御三家子孫である。」と書いている。1) 芥川三平(正岡慶信)氏も加藤敏雄氏も故人となられているので、これ以上の情報はとれない。
船と加藤御三家(加藤民部正、彦右衛門、清太夫)とのつながりを探していたら、御代島城主の加藤民部正(かとうみんぶのしょう)は、金子備後守元宅の船手であることに気が付いた。2)船手は水主や船舶を統括管理した。そして天正の陣で金子元宅の水軍の将として戦った。加藤家と船とは非常に強い関係があることがはっきりした。また江戸時代の西條藩の新居浜の水主の多くは、加藤民部正の旗下の子孫と伝える。2) 加藤民部正は庄内で討ち死にし(天正13年(1585)7月17日没)、その地に祀られて、民部さん(民部神社)がある。写真) お守りしている脇の加藤氏に伺ったところ、天正の陣後、ずっとここに住んで10代目であるが、先祖が船に関係していたと聞いたことはないとのことであった。加藤敏雄氏のご親戚に(2019.7.1訂正)御先祖は船に関係があったのではないかとの問いには、聞いたことがないとのことであった。
一方、明治5年(1872)の新居浜浦の船持調書によれば、5反帆以上の船が合計30艘あり、その1/3の10艘の船主の姓が加藤であった。7)やはり加藤姓と船との関係は強いことがわかった。しかし、この中に、加藤敏雄家の先祖が含まれているかどうかは、わからない。
筆者の気ままな推理は以下のとおりである。
船手であった御代島城の加藤御三家の子孫である忠七は、別子銅山が開坑した元禄には廻船を手に入れ、宝永6年(1709)には新居浜口屋と大坂泉屋に出入りしていた。宝永5年(1708)に切上り長兵衛が四国を離れた所で亡くなったことを聞いていた。享保~寛延~宝暦では、船主としてだけではなく、船問屋を経営し、その屋号を泉屋の井桁紋にあやかって井筒紋の新居浜井筒屋とした。新居浜井筒屋忠七船が別子立川銅山の荒銅を積んで大坂に行く途中、宝暦6年9月16日に兵庫沖で大風雨にあい難船、打荷し、その事後処理に泉屋や役人が多くかかわる事件があった。処理後、泉屋と井筒屋は相図り、翌年の宝暦7年(1757)に切上り長兵衛の50回忌供養を慈眼寺で執り行った。
切上り長兵衛が四国を離れる時や遺骨となって戻ってきた時に世話をしたのも浜井筒屋ではないかと想像する。
この推理を確かものにするには、以下のことなどを調べる必要がある。
① 加藤敏雄家の過去帳、系図、繰り出し位牌などを調べさせていただき、ご先祖に忠七さんを見つける。
② 寛延元年(1748)大島浦廻船石数改帳と同時期の新居浜浦廻船石数改帳等の古文書を探し、井筒屋、忠七、加藤などの名を見つける。
このような推理の基になった新居浜の海運業の歴史と廻船・船主の情報を以下に記す。
新居浜の海運業の歴史
黒川裕直によれば以下のとおりである。3)
「新居浜に於ける海運業は大島にては非常に古く、南北朝地代から海賊衆となって海を舞台に活躍したが、本当の意味での海運業は太閤の朝鮮の役(慶長3年(1598))後に同役に使った大船を附与され、これを商船に改造して廻船業をはじめたと云われ、新居浜に於ける海運業は大島廻船によって始まったとの事である(ブログの筆者は、この記述の妥当性を未確認)。新居浜ではそれより遅れ、寛永年間(1630年頃)立川銅山口屋が出来、(この記述の妥当性も未確認)また下って元禄15年(1702)から別子銅山口屋が設けられた。これは船宿と廻船問屋の機能をかねたものだったが、住友私設で一般には利用出来なかった。塩、米、竹皮、海産物を大坂、九州方面等へ輸送する廻船が入港し、小さいながら湊としての船宿(出入り船舶に対して一種の行政権を持つと共に、船員宿泊所と倉庫業を兼ねて居た)や廻船問屋(移出入貨物の公認斡旋所で船宿業者が荷物手形を発行した)があった。
西條藩では番所を大島浦・新居浜浦・西條喜多浜・氷見宮の下の4ヵ所に置き、代官所に所属する川口番人を世襲任命し、往来船の取調べや難破船の取扱いをした。新居浜番所は中須賀埠頭にあり、番人荒井氏が番所の水主と主に海上の見張りをした。航海船舶は御朱印の他に海上往来手形を要した。航海者所在の大庄屋がこれを作成し、船籍・帆端・乗組員数・積荷目録・航海目的が記載されている証明書であって、船の出入通過の際番所役人に提示することになっていた。
宝暦13年(1763)の吟味惣改帳によれば、新居浜浦には小廻船20艘と漁船93艘があった。一般船問屋は文政10年頃(1827)までは、新居浜浦鍋吉なるものが経営していた。
また「えひめの記憶(愛媛県史)」には以下の記述がある。2)
西条藩では公認の船宿は大坂宿と呼ばれ、新居浜・大島・松神子津口・黒島の4港に置かれた。特に大島浦は、地乗り時代の近世初頭では、大坂商人の商活動の根拠地となり地方屈指の商港であった。寛文10年(1670)には船28艘分の大坂宿銀363匁を上納し、水主は本浦に237人、黒島128人がおり、うち109人は他国者であった。数百石積の大船を有していた。黒島は多喜浜塩田開発後に塩問屋が置かれて、尾張・伊勢・三河・遠江・阿波なとから塩買船が入港した。
新居浜浦は元禄15年(1702)に別子銅山口屋が埠頭に置かれて発展した。大坂へ通う銅船(300石)中型廻船(100石)と地廻りの小廻船(50石以下)があり、宇摩・道前・美作などから銅山買請米を積む廻船が入津した。松神子は宝永4年(1707)に船問屋が置かれ、特産である素船が入津した。同藩の寛延ごろの帆別銀は1反当たり銀1匁で、7反帆以下は不要であった。
新居浜の廻船・船主の記録
1. 寛文7年(1667)「西海巡見志」によれば、保有する廻船数は以下のとおりである。4)
大島浦+黒島浦 ・300石積~200石積 17艘+6艘=23艘
新須賀村+新居浜浦 ・250石積~90石積 6艘+11艘=17艘
2. 寛文10年(1670)大島浦指出帳によれば、以下のとおりである。5)
大島と黒島合わせて大船(廻船)が28艘あった。(石数は筆者の推定)
・16端帆(300石積) 2 七右衛門船、三右衛門船
・15端帆(250石積) 4 長右衛門船、長右衛門船、李右衛門船、六兵衛船
・14端帆(200石積) 2 伝兵衛船、八兵衛船
・13端帆(175石積)7 喜兵衛船、弥三兵衛船、庄屋右衛門船、権右衛門船、伝兵衛船、君右衛門船
・12端帆(150石積) 2 伝右衛門船、八兵衛船
・11端帆(125石積) 6 五兵衛船、清右衛門船、小右衛門船、伝右衛門船、竹兵衛船、源兵衛船
・10端帆(100石積) 4 庄右衛門船、判右衛門船、七右衛門船、源右衛門船
・8端帆(45石積) 1 与兵衛船
16~11端帆の20艘は、主に北国運賃米積に使われ、残りの船は、材木を松山から播州、佐伯、日向から播州に運んだ。船名は、名だけで、姓(苗字)はわからない。
3. 寛延元年(1748)大島浦廻船石数改帳によれば、大島浦と黒島の廻船は20艘で、以下のとおりである。6)
・850石積 大島浦船主 村上庄左衛門船 沖船頭吉蔵
・900石積 同人船 沖船頭左次兵衛
・780石積 同所 由左衛門船 沖船頭吉兵衛
・900石積 同人船 沖船頭久兵衛
・850石積 同所 清右衛門船 沖船頭長四郎
・460石積 同所 重郎兵衛船 沖船頭
・770石積 同所 六郎兵衛船 沖船頭伊兵衛
・400石積 同人船 沖船頭伊右衛門
・860石積 同所 弥一右衛門船 沖船頭五兵衛
・520石積 同人船 沖船頭市左衛門
・500石積 同人船 沖船頭儀左衛門
・800石積 同所 与助船 沖船頭弥次郎
・550石積 同所 五郎右衛門船 沖船頭直三郎
・800石積 同所 九郎左衛門船 沖船頭直三郎
・650石積 同所 伊兵衛船 沖船頭惣吉
・730石積 同所 徳兵衛船 沖船頭利助
・800石積 同所 与兵衛船 沖船頭儀
・450石積 同所 与兵衛船 沖船頭四郎兵衛
・800石積 黒島 惣兵衛船 沖船頭茂左衛門
・900石積 同所 常右衛門船 沖船頭直乗り
寛延元年(1748)辰10月 与州大島浦庄屋 村上庄左衛門
同浦年寄 小右衛門
黒島年寄 五兵衛
同断 次郎兵衛
薩摩屋半右衛門殿
淡路屋長左衛門殿
伊与屋左次兵衛殿
この文書は大島浦から大坂の船問屋に宛てたものである。米をはじめとして各地の産物が江戸、大坂を中心に集積された。大島浦の海運業が非常に栄えていたことがわかる。
4. 寛延元年(1748)頃の新居浜浦廻船石数改帳等
別子銅山の銅や米などを運んだのであるから、記録文書はあるはずであるが、筆者はまだ見つけていない。
注、引用文献など
1. 芥川三平 「瑞応寺西墓地の怪(下の四)」新居浜史談347号p16(2004.7)
2. データベース「えひめの記憶」>愛媛県史近世下(昭和62.2.28発行)>海上交通①
3. 黒川裕直「新居浜港を中心とした海事史話」p1(昭和39.7.20 1964)
4. 幕府巡見使 川口孫兵衛・藤堂勝兵衛・堀八郎右衛門ら「西海巡見志」寛文7年(1667) 伊予史談会双書第11集p28 (伊予史談会 昭和60.7 1985)
5. 黒川裕直編著 「予州新居浜浦」p4(昭和50.1 1975)
6. 古文書集編集委員会編(委員長 池田寅雄)「古文書で探るふるさと新居浜」p33(新居浜市教育委員会 平成4年 1992)村上文書
7. 黒川裕直編著 「予州新居浜浦」p132(昭和50.1 1975)
明治5年(1872)諸願留より 船持調書 新居浜浦
5反帆以上の船が合計30艘あり、その1/3の10艘の船主の姓が加藤であった(以下抜粋)。
14反帆 200石積 4人乗 沖船頭 明星蔵 住吉丸 加藤徳太郎
8反帆 40石積 2人乗 自分乗 有尚丸 加藤重造
8反帆 45石積 2人乗 沖船頭 白石春太郎 喜徳丸 加藤喜平
6反帆 20石積 2人乗 自分乗 喜徳丸 加藤仙助
7反帆 45石積 2人乗 自分乗 三穂丸 加藤芳造
7反帆 45石積 2人乗 自分船頭 長者丸 加藤庄兵衛
9反帆 75石積 3人乗 自分乗 住吉丸 加藤庄作
6反帆 20石積 2人乗 御代丸 加藤茂吉
6反帆 20石積 2人乗 自分乗 御代丸 加藤政右衛門
7反帆 45石積 2人乗 自分乗 宝栄丸 加藤覚蔵
写真. 加藤民部正をお祀りした民部神社と明治16年末秋(1883)に建てられた300回忌供養の常夜灯 竿石正面に「金毘羅宮 奉燈」の刻字あり(新居浜市庄内)
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