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新居浜口屋といつから呼ばれたか

2019-04-17 17:58:48 | 趣味歴史推論
「新居浜口屋」の歴史と果たした役割については、「住友の歴史 上巻」に簡潔によくまとめられている。1)
この口屋は、元禄15年(1702)8月、新居浜浦の六左衛門の家と土蔵とを賃借してこれに充てた。2) その時に「新居浜口屋」と書かれた看板が掲げられたという記録は、見つからなかった。その当時の絵図を探したが、見つからなかった。140年後に出版された原本「西條誌」の新居浜浦の絵図が最も古いものであった。3)図
この絵図では中央やや左手前に口屋の建物、2艘の弁才船、中央奥に御代島が丁寧に描かれている。本文には、「口屋と云う」と記されているが、この絵図には「口屋」の表示はない。

いつから新居浜口屋と呼ばれたのかを明らかにするために、「別子銅山公用帳一番・二番」「別子銅山公用帳三番・四番」の中の関連する箇所を抽出した。以下のとおりである。

1.(1706年)予州別子銅山宝永3年戌6月25日大風雨破破損仕候覚4)
新居浜役所並びに土蔵瓦吹落、壁落、其の外所々破損 此入用銀3貫2百目
2.(1707年) 与州別子銅山、宝永4年亥8月18日・19日大風雨破損ニ付、銅座役所並後藤四郎三郎殿江書付相認、差出候控5)乍憚口上
新居浜居宅瓦吹落シ、其外蔵5、6ヶ所壁吹落シ申候
・同所、19日昼過大潮満、津波打掛、浜手之蔵屋ね之中程迄波打掛、海へ投込可申処、漸綱・おもりニて取留申候
右之通不取敢申上せ候故、大概ニ而御座候、----
 亥8月  泉屋吉左衛門 金福印
 銅座御役所へ一通 宛名なし一通、後藤四郎三郎殿へ
亥8月18日亥上刻ゟ翌19日午刻迄、大風雨破損仕候覚6)
新ゐ浜役所並土蔵瓦吹落シ、壁落、其上高潮ニ而蔵々へ潮打込、米其外諸荷物根拼之分、濡捨り候損銀並修覆入用共 此損銀4貫200目
合銀209貫790匁
右者8月18日亥上刻ゟ19日午刻迄大風雨ニ而、破損仕候ニ付、一々吟味仕、損銀之積如此御座候、以上
 宝永4年亥9月       泉屋理右衛門
  神波彦太夫殿
  黒川三右衛門殿
右ハ遠藤様御廻国ニ付、沢右衛門殿新ゐ浜役所ニ9月15日御一宿ニて、黒川三右衛門殿ゟ指出シ被申候処ニ、則沢右衛門殿へ(ママ)、遠藤様へ御上ケ被成候由、与州ゟ書付写如此
3.(1710年)宝永7寅8月2日、予州大風雨ニ付御代官へ破損所注進書付指出し候由、---乍憚書附を以御断申上候7)
・立川口家並蔵6ヶ所、中持小屋数ヶ所、屋ね少ツヽ吹取申候
新居浜口家高汐満、蔵々へ汐満込、米根はへ、1俵半ゟ2俵迄濡レ申候、米之外諸色根はへ之分、汐濡ニ罷成申候、米高3100石余程所持仕候、于今汐高ク御座候故、蔵々詰替難成御座候故、凡米150石も損し可申と奉存候
右之通御座候、----
 寅8月4日       泉屋吉左衛門代 理右衛門
                     彦右衛門
                     勘平
 黒川三右衛門様
 鈴木理大夫様
4.(1715年)正徳5年8)
乍恐書付を以存寄奉願候覚
・右銅山元ニ而掘出候諸入用、並大坂江廻候運送入用等、委細御吟味之上、江戸ニ而成共大坂ニ而成共、可被為下置旨被為仰渡、奉承知候御事
 ---山方諸小屋・銅吹床・焼竈・所々役所、並立川村中次所諸蔵・新為浜役所蔵等、大分之入用を以、普請仕置申候、---
 正徳5年未12月  泉屋吉左衛門
 石原新十郎様
5.(1719年)享保4年9)
乍恐口上
予州別子銅山去戌11月ゟ当正月迄、御用銅勘定仕立指上申候処、諸入用多、銅直段高直相当り申候故、再三被遊御吟味得共、山元下財・掘子・働人給銀難減御座候ニ付、乍恐口々存寄御断奉申上候、---
・銅・炭御運上銀、新銀ニ而も前方納高之員数上納仕候ニ付、三拾割増上納、右之外御用金・浜手金、並薪山年貢・口屋地子銀等も、右之積りニ准シ申候、依之戌11月ゟ亥正月迄、出銅18万8千斤余ニ増銀を割付候得者、銅100斤ニ付8匁8厘3毛宛入用多掛り申候、此訳左ニ記
・新銀150目     新居浜役所地代
・新銀79匁9分9厘  立川村中宿地代
---以上
享保4年亥3月       予州別子銅山師 泉屋吉左衛門
   石原新十郎様 
6.(1721年)享保6年10)
乍恐口上
----
・去ル午年遠藤新兵衛様御支配之節、米請取方之儀、御書付を以被仰付候、右御書付予州新居浜口屋ニ御座候、俵数大分之儀、1俵宛相改候而者急ニ埒明不申候ニ付、36俵は拼へニ仕、鬮を入、3俵宛廻シ取申様被仰付候、依之至只今ニ、如此ニ御請取申候御事
 ---
 享保6年丑正月     立川銅山師下代 松井市郎兵衛
             別子銅山師下代 泉屋安兵衛
 後藤斧右衛門様
 保坂村右衛門様
7.(1721年)享保6年11)
予州別子銅山諸色有物並代銀付覚
・銅63750斤 但銅100斤ニ付100目替 代銀63貫750匁
・12500斤  立川中宿ニ有
 ・36000斤  新居浜口屋ニ有
・銀21貫17匁
 ・2貫目   立川中宿ニ有
 ・15貫目  新居浜口屋ニ有
・米1680石 但1石ニ付37匁替 代銀62貫160匁
 ・480石   立川中宿ニ有
 ・350石   新イ浜口屋ニ有
・鯨油13石5斗8升 但1石ニ付250匁替 代銀3貫395匁
 ・3石8斗9升 立川中宿ニ有
 ・2石5斗   新居浜口屋ニ有
・本筵4820枚 但10枚ニ付1匁1分5厘かへ 代銀554匁3分
 ・2100枚  立川中宿ニ有
 ・870枚  新イ浜口屋ニ有
・紙類397束 但10束ニ付16匁2分5厘かへ 代銀645匁1分2厘
 ・147束   新イ浜口屋ニ有
 合銀389貫342匁2分6厘
右者予州別子銅山不断所持仕候有物、今度御役人中御見分ヲ請、如此御座候、右之外下財・炭焼・樵夫・床屋働人・並立川中持・新居浜舟持・馬持、其外諸働人前借銀70貫目余、又他領炭山敷銀・仕入銀20貫目余、都合470貫匁余、右書上候通少も相違無御座候、以上
 享保6年丑8月    予州別子銅山師 泉屋吉左衛門
 石原新十郎様
8.(1722年)享保7年12)
 乍懼書付を以奉申上候
  当6月22日ゟ24日迄風雨大洪水、又7月9日ゟ12日迄風雨大洪水ニ而、別子御銅山両度破損仕、修覆入用損銀之覚
 ・山里諸役所破損所 此入用銀3貫999匁 但銅山番所並勘庭・諸役所蔵々、弟地・杖建両所炭中宿役所、新居浜・立川役所、銅山下財小家数ヶ所修覆、板・柱・釘・人足入用とも
右之通御座候、--- 乍懼書付を以御断奉申上候、已上
 享保7年寅8月        泉屋卯兵衛
 鈴木利大夫殿
 座光寺甚内殿
9.(1724年)享保9年13)
 乍懼書付を以御断申上候
・当月14日午刻ゟ同丑刻迄辰巳風吹、別子銅山所々破損之覚
 ・新居浜役所屋ね、並蔵々屋ね所々吹取申候
 右之通御座候、--- 乍懼御断奉申上候、以上
  享保9年辰8月        泉屋卯兵衛
  鈴木利大夫殿
  座光寺甚内殿

新居浜口屋は、元禄15年(1702)8月、新居浜浦の六左衛門の家と土蔵とを賃借して始めたとあるが、このことは別子銅山公用帳には、記されていない。原典は分からなかった。
1706、1707年では、新居浜役所、1710年に初めて新居浜口家(くちや)が出てきた。1721年に新居浜口屋と記された。
ふたつの呼び名、役所と口屋とが混在していた。書いた手代が名で役目や家屋(家と蔵)を区別していた可能性もあるが、初期には単に呼び名がふたつあったと考える。

住友史料館によれば、口屋の記録「諸用記」は、現在公開の対象とはしていないが、18世紀後半(天明)から明治にかけてのものなので、切上り長兵衛についての記事はおそらく含まれていないと思われるとのことだった。14)口屋筋から切上り長兵衛を追うのは、難しそうだ。

注 引用文献など
1.住友史料館編「住友の歴史 上巻」p120 (思文閣 2013.8)
2.平塚正俊 住友本社庶務課「別子開坑二百五十年史話」p139(住友本社 昭和16.12.25 1941))原典は分からなかった。
3.2の裏表紙の見返し 原画は 日野暖太郎和煦 編述 樋之口分庄屋・國平有同 図 「西條誌」巻之十四 (天保13年5月 1842)の新居浜浦の図
4.住友史料叢書「別子銅山公用帳一番・二番」p138(思文閣 昭和62.10 1987)
5.同上p173
6.同上p177
7.同上p222
8.住友史料叢書「別子銅山公用帳三番・四番」p7(思文閣 平成7.1 1995)
9.同上p65
10.同上p117
11.同上p135
12.同上p194
13.同上p232
14.住友史料館の回答(平成31年4月3日 2019)

図 新居浜浦(原画は「西條誌」國平有同 1842)


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