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今村祇太夫の曽祖父は 近江甲賀郡出身 山伏行で宇摩郡中曽根村へ

2022-07-10 08:28:43 | 趣味歴史推論
 三島村の今村祇太夫は、自身が作成提出した別子銅山への米売込みの願書の記載により、貞享4年(1687)の別子銅山露頭の発見者とほぼ認定されている。祇太夫がどのような経歴の持ち主なのかを知りたいと思った。
そこで「 三島」+「今村家」 でネット検索すると、石川士郎著「伊予今村家物語」(今村武彦発行 2006)が見つかった。1) 石川士郎氏は、家譜・系図と柏町の瀧神社の棟札を読み解き、宇摩、三島の歴史を明らかにするために、「伊予今村家物語」を著した。これにより、今村家の経歴を筆者は知ったので、祇太夫に至るまでの家譜を2回にわたって紹介したい。なお、解りやすくするため、句読点、カタカナ→ひらがな、かな→漢字、()内の読み方、意味 は、筆者がしたものである。

伊予三島市史(昭和59~61発行)の執筆者である郷土史家の石川士郎氏は、平成2年今村正夫氏に「今村道之進日記と家譜、画好類」を見せられた(これは平成4年「今村家岩井屋敷文書」として伊予三島市文化財に指定された)。今村道之進義種は、今治藩(当時は三島は今治藩であった)の中曽根村(なかぞねむら)大庄屋を務めた今村家の分家に生まれ、京都で狩野派の鶴沢探索のもとで修行し、帰郷後、在村狩野派絵師として活動した。この文書は、道之進が天明8年(1788)から文政12年(1829)までの43年間書き記した日記や、道之進が絵師として絵の注文を受けた控えである「画好」などである。

今村家譜の特徴は、初代義親以後は生年月日。没年、戒名、妻の出所、子女の名前や婚家先まで全てわかる範囲まで記載されているところにある。

石川士郎著「伊予今村家物語」(今村武彦発行 2006)
 
今村義親(長蔵坊秀氏筑後守)-----義廉(孫兵衛)-----勝義(茂右衛門)-----義元(祇太夫)
   1602没           1651没     1681没      1701没

1. 伊予三島今村家初代義親(よしちか)
石川士郎によれば、初代の経歴については、家譜より瀧神社棟札に書かれた内容の方が真実に近いとしているので、それを引用する。

家譜にあるとおり、長蔵坊(義親の山伏道の名)が 弘治3年(1557)に眞鍋次郎兵衛(中曽根村地主)の援助を得て瀧神社を再興したことが、以下の棟札で確認された。
「奉再興上棟瀧宮寺社壇一宇 弘治3年丁巳8月吉日 本願者江州之住長蔵坊
  大檀越 眞鍋次良兵衛〇〇〇 大工大蔵200人余」

 長蔵坊が三島に定住するようになった理由については、家譜に眞鍋大炊介(中曽根村地主)の勧めによると簡単に記載されているが、宝永8年(1711)の棟札に瀧宮6代目当主秀紹が次のように書き記している。

「奉上葺瀧宮牛頭天王社一宇 于時宝永8年2月6日------(以下略)
この社零落の所、当初弘治年間嚢祖(のうそ 先祖)今村筑後守秀氏、修験三密の優婆塞(うばそく)、山伏道の長蔵坊と号して、扶桑を回国のついでに来る。因縁の機なり、即ち眞鍋大炊介同次郎兵衛等、田地川地を扶助し財を施し、本願にて再興す。------(中略)
 秀氏(ひでうじ)近江甲賀郡の人なり。乱世に氏族と別れ、日の本のあらゆる寺社霊場を拝せること筆あり。国を出でしは、かって弱冠の時也。四国にも渡りへして、三島村利屋吉兵衛ノ何某がもとに、しばし休息の間、中曽根の城主、近辺の押領使眞鍋大炊介に謁す。軍術兵法の運道に応えると、ひたすらに留められぬ。真鍋大炊介舎弟次郎兵衛等みな筑後守を師とし武辺のいさおし(勲)を極め、しかも志のみさふ(操)なるに慕ひ、とかくして居住の事を勧む
 秀氏 等閑にしてぜひともみるべくもあらねば、大炊介庶幾(しょき 願い)むなしく、君は婆羅窶(ばらぐ)の使徒ならずや、且つ興隆のことはすきる道なり、当郡の鎮守瀧宮牛頭天王の社は、破壊せること年奄し(ひさし)、修験道の本願をなし給はば、予もまた檀越(だんおつ 施主)の績誠を励まし不日(ふじつ いつか)にして社堂を成就せしめんと有りしに、さすが剛ならぬ心様の素直に領掌(りょうしょう 了承)し攸(由)。
 福玉を磨きて成さぬは、縁より利屋吉兵衛の息女を娶り、大炊介が出城に築きたりし瀧の宮に館をつくりして、甚兵衛秀之、九郎右衛門由義の二子を出生しぬ。会者定離すてり免るべくもあらぬ世に妻なん世を供養し給いぬれば、身に思わぬ人の媒に頼りて、讃岐国豊田郡和田の何某大平伊賀守の女をかしづきもて、孫兵衛義廉を生まる也。
祖跡は嫡男甚兵衛。次男九郎右衛門は三島に居しけだし利屋吉兵衛の屋敷に家造りたる。三男孫兵衛は、中曽根村に居住を営し。三子とも思う住にありつけり。---(以下略)」

家譜の記載
義親 今村弥三郎 号筑後守 大織冠(たいしょっかん)(中臣)鎌足15世の孫佐藤筑後守遠義より400有余年なり。大永7丁亥年(1527)江州甲賀郡深川今村郷に生まる。先祖累代近江国栗本郡田ノ上庄の領主なり。----
 慶長7壬寅年(1602)正月10日卒 行年76歳 法名 観光院嘉玉宗珍大居士」

2. 2代今村義廉(よしかど)
 家譜の記載
義廉 今村孫兵衛 本腹 中曽根(なかぞね)今村祖 初め義重と云 家重とも外伝にあり 中田井(なかたい)の元祖なり。 時に邑主眞鍋氏没し時世兵乱して隣境侵掠(かす)む。加藤左馬助嘉明(松山20万石城主)の領地と成る。左馬助義廉に命じて云う 新居宇摩二郡は4州の境にして城下を去る事遠にして、緩急救い難し、よって二郡は孫兵衛心の侭(まま)に処置すべしとて、弓鉄砲鎗長刀甲冑鞍箙籠旗竿各1宛を賜る、皆左馬助の拝領なり。これより郡中安に就きて百姓業を安んず。この時左馬助殿用人(足立)半右衛門承りの書状数通今にあり、この時より初めて大庄屋の名号ありて代々相続す
慶安4辛卯年(1651)10月14日卒す 83歳 法名 素光院玉雪道臨居士
室は讃州壱岐守家老高坂丹波後に豊田郡植田村住坂本甚太夫女なり、3男2女を生す」

義廉は、加藤嘉明から宇摩新居は心のままに処置すべしと、大変異常に感ずるほどの信頼を受けている。義廉は武人としても認められていたことであると石川士郎は記している。

3. 今村勝義(かつよし)
家譜の記載
「勝義 2代今村義廉の次男茂右衛門勝義は、分家して三島村に住む。油屋と称す
天和元辛酉年(1681)9月7日没 法名 心蓮祐是居士」

勝義の長男が今村祇太夫である。次報に記す。 

注 引用文献
1. 石川士郎「伊予今村家物語」p11 p13 p53 p96(今村武彦発行 平成18年4月 2006)


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