「山下吹」を解明するために、「山下吹」の語を用いた初出の文書を探している。同じ著者でも初出のものを探した。わずか数週間の探しで不十分であるが、現時点で時系列的に取り上げ内容を検討する。「山下吹」は、「鉱山至宝要録」(元禄4年(1691)にはなかった。今のところ、「宝の山」が初出である。
1. 「宝の山」宝永末年~元文5年(1710~1740)1)
(1)摂津国 →図1.
・多田銀山 堅ゲ物 但し足り物、則山本にて鍰(しぼり)取り、銅大坂へ上る。右請負の儀、場所望み次第、明かりにて𨫤通り見立て、公儀へ願い候えば見分なられ、50間限りに法地立て相渡る、但し土底獄法地なり。證文之取り候て、吹屋そのほか人数相極め候、見立て候わば、山先科1ヶ月45匁ずつ、右中間より之取り候、運上は吹屋より之出し、鉑は36貫目を1駄と定め売買之致し、床は山下吹に仕候。
(2)石見国 享保10年4月(1725)泉屋手代の山所見分の覚書→図2.
・邑智郡出羽村組見分所 岩屋村の内、打ち通し1ヶ所 但しこれは鉛にて候、最初銀山と申すに付き、領主より少々お稼ぎなられ候えども、とうと無く相□れ候を、右村組頭五郎左衛門堀り上げ之有り鉛鉑を焼き、なおまた舗内少々内稼ぎ見候由、四つ留より山向うへ2~3間走り、それより竹樋9丁尺下り候由、鉉筋は前の谷へ向下り込み候ゆえか、次第に水も強く相成り、相止め申す由、根戸大方谷端までは出候様にあられ候、この谷下までも平地にて、水貫の切り所之無き候、尤も鉛歩付きは生鉑60貫目焼き、四つに〆山下吹にいたし候えば、鉛8貫目ずつは之有り由、右8貫目に足し銀50匁余ずつ之あり、留粕はその時分、銀山領久喜の山に少々ずつ売り候、これは仕替丈夫に致し掛け稼ぎ候わば、3~4年ともは稼ぎ申すべき様あられ候。
2. 解釈と考察
(1)多田銀山
「堅ゲ物(かたげもの)」とは、多田銀山の銀は「銀堅気(ぎんかたげ)の品質のものである」といっていることである。「鉱山聞書」(1785)によれば 銀堅気とは「銅の気交じりて色黒く成りたる」銀のことである。2)銀は本来白銀色で軟らかいものであるのに対し、銅(あるいは別の金属かもしれない 筆者)が少し含まれているため堅い(硬い)ものになっていると筆者は推測する。黒くなるということから、不純物として銅だけではなく他の(金属)不純物も含まれていたのではないかと思う。堅ゲ物(かたげもの)は、大坂の銅吹屋において、合吹・南蛮吹・灰吹されて得られた(純)銀に比べ品質が一段劣るとして低価格であった。但し、銀の含量は基準を満たしていたので「足り物」であった。「堅気物」の言い方は、大坂の銅屋(泉屋か?)から始まったのであろう。山元の人は、自ら「硬い銀」(劣った銀)ですとは言い出さなかったに違いない。大坂と商売しているうちに大阪銅屋の言い方が一般的になったのであろう。銀を含んだ銅鉱石を原料として製錬されてできた荒銅から銀を絞りとる工程まで、山元で行っていた。鍰取り(しぼりとり)とは「一般的には、荒銅に鉛を加え合銅(あわせどう)にし、次いで南蛮吹にて銀を含んだ鉛を分離し、残った銅を鍰銅(しぼりどう 絞銅)すなわち銀を絞り取られた銅」を得る工程のことである。
元禄3年(1690)頃に書かれた生野「銀山旧記」には、「寛永9年(1632)津の国能瀬(摂津国能勢、多田銀山の地)より長兵衛・庄兵衛というもの来りて、かたけ吹を致す、銀山の買吹これよりかたけ吹きをして石床止む、銅を主として銀をしぼり上げる故、昔の上灰吹よりこれ以後の上灰吹は位少し悪し、何ど吹き抜けても気つよきより銀かたし」とある。3)「宝の山」時代も多田銀山では、[かたけ吹き・カタゲ吹き・堅気吹き]をしていたと思われるが、「宝の山」では、「床は山下吹に仕候」と記している。
[かたけ吹き・カタゲ吹き・堅気吹き]の工程がどのようなものかを論じるのは、容易でないので、後に廻すとして、ここでは、かたけ吹と山下吹は、関連がありそうだということに留める。
「かたげ吹 かたけ吹」とは、低品質の銀を得る方法という意味であまりよくないイメージの呼び名である。しかし筆者が推量するに、この方法は黄銅鉱などの硫化銅鉱石から、銅(ひいてはその中に含まれる銀)を大量生産するのに、生産性、経済性に非常に優れた吹き法であったので、得られた銀が少し低品質であることは承知の上で採用されたのであろう。
泉屋の手代が、多田銀山の銀が「堅ゲ物」と書きながら、床は「かたけ吹」と書かずに「山下吹」と書いていることに注目したい。
(2)岩屋鉛山
ここは、銀を僅かに含んだ鉛山である。鉱石は方鉛鉱(PbS)である。この方鉛鉱は、量論ではPb 86.6wt%、S 13.4wt% と非常に鉛の含量が高い。この方鉛鉱鉑石を焙焼し、次いで山下吹すると、生石鉑15貫(=60/4)から鉛8貫と銀50匁が得られた。収率は8/(15×0.866)=61.6%と充分高い。鉛の製錬に使っている方法も山下吹であると技術屋の手代が認識していたことになる。単に銅鉱石、黄銅鉱(CuFeS2)の製錬だけに対して山下吹があるのでないということである。山下吹は、焼いて吹くと臭いガス(SO2)がでる鉱石の製錬に適用できると認識していたに違いない。
当時の山下吹による鉛製錬法は未調査であるので、推測になるが以下の様な化学反応ではなかったか。3段目はあったのかどうか。
2PbS+3O2→2PbO+2SO2 2PbO+PbS→3Pb+SO2 PbO+C→Pb+CO
留粕とは、主成分が一酸化鉛(PbO 密陀僧(黄色顔料))で、鉛と同様に南蛮吹の合吹に用いられた。
岩屋鉛山の鉛製錬が「山下吹」と言われたことを見つけたことは、「山下吹」を解明するのに役立つはずである。
まとめ
1. 住友史料「宝の山」(1710~1740頃)に「山下吹」が2か所あり、今のところこれが初出である。
2. 多田銀銅山で銀含有銅鉱石の製錬に山下吹が使われていた。できた銀は「堅げ物」であったが「かたげ吹 かたけ吹」とは呼んでいない。
3. 山下吹の発祥の地は、多田銀銅山の地であった山下町の可能性が高まった。
4. 岩屋鉛山の鉛製錬で山下吹が使われていた。よって山下吹とは、銅製錬だけでなく、より広く適用できる技術である。
「宝の山」より前に「山下吹」と書いた文書はあるはずだと思うので探していきたい。
注 引用文献
1. 住友史料叢書「宝の山」p6,p66(住友史料館 平成3年12月 1991)
2. 赤穂満矩「 鉱山聞書」 天明5年(1785)著 筆者はこの記述の原本を見ていないので、井澤英二・青木美香「多田銀銅山の採鉱・選鉱・製錬技術」 猪名川町文化財調査報告書5「多田銀銅山遺跡(銀山地区)詳細調査報告書」p171(猪名川町教育委員会 2014.3)から引用した。
3.「銀山旧記」:天文11年(1542)より天和 3年(1683)までの生野銀山史。原本は元禄3年(1690)生野奉行所附役人寺田十郎左衛門豊章が著したとされ、享和3年(1803)勝岡同好が原本の写本を筆写し、銀山旧記という表題を付けたとみられる。
筆者は、2020.7.18に朝来市生野史料館生野書院より 「読み下し「銀山旧記」」(生野古文書教室 平成30.3 2018)を頂いた。お礼申し上げます。
図1. 「宝の山」の多田銀山の山下吹の部分
図2. 「宝の山」の岩屋鉛山の山下吹の部分
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