梅津政景(うめづまさかげ)は、秋田初代藩主佐竹義宣の家臣で、院内銀山奉行・惣山奉行・勘定奉行・家老を歴任した。慶長17年(1612)から寛永10年(1633)の死の4日前まで私日記を付けた。その日記巻二に「からみ」が書かれていることを日本国語大辞典で知ったので、その部分を以下に示した。1)
読み下し文は、筆者が句読点、濁点、送りがなを入れた。「からミ」の「ミ」は、元の字が「三」である変体仮名である。大日本古記録では、原本の変体仮名のまま用いたと例言に書かれている。ここでは、字形の似ているカタカナの「ミ」で表記した。
1. 梅津政景日記巻二上
・慶長18年(1613)8月
床役屋の小走り 石見覚右衛門・江戸覚蔵 と申す者 8月6日昼 牢舎致し候。
その様子は、去る3日に、越後喜三郎と申す者、鑿脇(のみばき)の札を取り、鑿脇買い候由、しかる処に、その内にからミ御座候を、ゆりわけ、鑿脇のゆりものをば、桶に入れ、からミをば こも(菰)に入れ、持ち通り候処を、床役持候の丹後與兵衛・尾張次右衛門・京ノ甚兵衛・越後源蔵の下の小走り右両人が見付け、手代の大津與右衛門・越前四郎兵衛の所へ召し連れ参り候由、
手代両人の者の申し付け分は、からミの札なくして、からミ持ち通り候事不届きなり、2ヶ月の役を出し候えと申し付け候由、
喜三郎は迷惑致し、尾張善介と申す者を頼み、詫び言致し候付けて、手代の者、からミ1ヶ月の役にて用捨て致し候由、喜三郎かたじけない由申し候て、銀2匁ずつ両人の手代の者に出し候て、盃まで致し、罷り帰り候が、但し、からミ・ゆりものを持ち罷り帰るべきと致し候処に、
彼の2人の小走りども、このからミは我らのはながみに致し候とて押さえ候由、これは迷惑の由申し候えば、後々より定めさせる事の候間、ぜひともこのからミは返すまじきよし、2人の者申し候由、
ぜひにかなわず候て、善介の申し分は、左候はば手代の衆頼み入り候ゆえに、酒を小走り衆に買わせ申すべき候ゆえに、御策媒(さくはい)候えと申し候えば、手代両人の者の申し分は左候はば、そのからミにて銀10匁吹き候はば、5匁小走りに出しさせ候え、20匁吹き候はば10匁、ないし50匁も吹き候はば20匁も、小走りに出し候えと申し候由、
善介の申し分は、このからミに、何ほど銀有るべくの儀も知らず事候ゆえに、銀5匁にて、合点致させ候様にと、善介申し候えば、手代の者合点にて、銀子5匁請い取り候由、
然るところに、小走り右両人5匁にては合点致しまじく由申し候て、腹を立て返し候由、これについては、喜三郎同宿の伊勢與五右衛門の申し分は、さて何ほど銀子御取り有るべきと申し候て、大声致し候由、
小走りどもの申し分は、右より善介策媒候ところを、脇より指し出し、入らず儀申し候と叱り候由、與五右衛門の申し分は、同宿に居候へば、喜三郎は同前の事候ゆえに、さて申すことに候て、雑言を小走りどもと云い合い候由、
然るところに、床役手代の四郎兵衛が奥より木刀を持ち来り、夜中に参り、大声致し、慮外の由申し候て、與五右衛門の頭を病ませ候由、これについては與五右衛門が刀を押し回し候由、脇より床役屋の者共集まり、刀を取り、昨夜半の時分(川井)加兵の所へ持参候、夜中に候ゆえに、双方返し候、今朝 加兵・我(梅津政景)等同前に、右の様子詮索致し候、
加兵・我等の申し分は、からミの札なく候て、からミ持ち通り候分には、1ヶ月の役銀にて相済み候えば、是に子細なし、そのうえ銀子2匁ずつ手代両人に出し候えば、喜三郎儀は、無残(かわいそう)なところの様子に候ところに、右これからミを小走りども取るべしと申す儀は不届きなり、何処よりの教えぞと尋ね候えば、床役持4人の者は申すに及ばず、手代2人の者も申さず、右策媒人善介の有日の物語りに、後々もからミ札取らずして、からミなど持ち歩き候者をば、役儀は役屋へ取り、からミをば小走りどもはながみ分に致し候と申し候ゆえに、取り申すべくと申し候由、
挨拶致し候、善介に尋ね候えば、我等床屋を致し候て居候えども、からミの出入りの儀、手前の儀申すに及ばず候、仲間のをも不承知候、このたび始めての由返答致し候、
加兵・我等の申し分は、両人の小走りいよいよ曲事なり、よしんば4人の床役持候者の申し付けか、また手代両人の申し付けか、さ無くば、いづこの奉行の代にも左様の引きかけあるか、又何者の役持候時の覚もあって申し候ども、二重取りにて不届きなるところに、あまつさえ何も知らぬ善介の物語りによって、からミ押さえたるなどと、公儀への志尚人に成り難き曲事の由申し付け候、
また手代四郎兵衛に申し付け分は、小走りども、不届きの儀申し出候ども、申し付け、おさえは到らず、その身どもの申したきままに申させ、その上小走りと與五右衛門抗い口論の衍儀、双方召し連れ、披露は致さず、木刀をもって、與五右衛門の頭を病ませ候事、小走りの不届き、口論を請け取り、喧嘩相手になり候間、過銀1枚を出し候えと申し付け候、
また與五右衛門に申し付け分は、床役小走りの者無理なる儀申し出候はば、喜三郎とかく挨拶致し、成らず所をば披露致すべきところに、同宿といいながら、喜三郎よりさし出し、その身入れずからかい致し候、その上四郎兵衛が木刀をもって、頭を病ませ候はば、そのまま逃げ来り、披露致し候はば、その身道理にこれ有るべきところに、刀のそりをなおし、抗い候えば喧嘩なり、その科に過銀1枚を致し候えと申し付け候、
但し右覚右衛門・覚蔵の事は、山師どもがしきりに詫び言致しに付きて、牢より出し、8月27日の夜、山師どもに渡し、山中を追い払い申し候。
2. 梅津政景日記巻二下
院内銀山春諸役御運上銀請取覚帳 慶長18年3月8日
・入役 正月より6月晦日までの分 高31貫目也 加賀長兵衛
------
・床役 てつ、からみ共に 正月より6月晦日までの分 高15貫550目也 能登太郎兵衛・同太郎右衛門・山先正左衛門
-----
地子役、板役、流役、傾城役、煙草役、炭灰役、砰(ずり)役・山川共に、麺類役、番匠・檜物・桶役、造り酒役、湯風呂役、鍛冶役、道砰・鑿脇役、灰吹役、米の小売役、餅米役、材木役、具米・引喰役、あと院内の7つの役
まとめ
1. 文中の「からみ」の表記は18ヶ所全て「からミ」である。「鍰」は使っていない。院内銀山で「からミ」が使われていたことから、銅吹きより以前に銀吹きに「からミ」と使われていたがわかった。よって、より古くから銀吹きをしていた石見銀山で使われていた可能性が高い。石見銀山の古文書で慶長18年以前のもので「からみ」を探そう。
2. 「からミの札」「からみ役(税)」があった。院内銀山では、業者や商店に27種の税(役)を課けた。その中で、床屋は、床役と共に、からみ役を納めた。からミには、銀がまだ含まれているので、吹けば銀が得られる価値あるものであった。
注 引用文献
1. 大日本古記録「梅津政景日記一」(上)p219~222(図1.2.3.) (下)p236~238(図4) (岩波 昭和28年 1953)
例言には、秋田県立秋田図書館の梅津政景自筆の原本で校正したと記されている。
図1. 梅津政景日記 慶長18年 「からミ」部分1
図2. 梅津政景日記 慶長18年 「からミ」部分2
図3. 梅津政景日記 慶長18年 「からミ」部分3
図4. 梅津政景日記 慶長18年院内銀山春諸役御運上銀請取覚帳の一部分
読み下し文は、筆者が句読点、濁点、送りがなを入れた。「からミ」の「ミ」は、元の字が「三」である変体仮名である。大日本古記録では、原本の変体仮名のまま用いたと例言に書かれている。ここでは、字形の似ているカタカナの「ミ」で表記した。
1. 梅津政景日記巻二上
・慶長18年(1613)8月
床役屋の小走り 石見覚右衛門・江戸覚蔵 と申す者 8月6日昼 牢舎致し候。
その様子は、去る3日に、越後喜三郎と申す者、鑿脇(のみばき)の札を取り、鑿脇買い候由、しかる処に、その内にからミ御座候を、ゆりわけ、鑿脇のゆりものをば、桶に入れ、からミをば こも(菰)に入れ、持ち通り候処を、床役持候の丹後與兵衛・尾張次右衛門・京ノ甚兵衛・越後源蔵の下の小走り右両人が見付け、手代の大津與右衛門・越前四郎兵衛の所へ召し連れ参り候由、
手代両人の者の申し付け分は、からミの札なくして、からミ持ち通り候事不届きなり、2ヶ月の役を出し候えと申し付け候由、
喜三郎は迷惑致し、尾張善介と申す者を頼み、詫び言致し候付けて、手代の者、からミ1ヶ月の役にて用捨て致し候由、喜三郎かたじけない由申し候て、銀2匁ずつ両人の手代の者に出し候て、盃まで致し、罷り帰り候が、但し、からミ・ゆりものを持ち罷り帰るべきと致し候処に、
彼の2人の小走りども、このからミは我らのはながみに致し候とて押さえ候由、これは迷惑の由申し候えば、後々より定めさせる事の候間、ぜひともこのからミは返すまじきよし、2人の者申し候由、
ぜひにかなわず候て、善介の申し分は、左候はば手代の衆頼み入り候ゆえに、酒を小走り衆に買わせ申すべき候ゆえに、御策媒(さくはい)候えと申し候えば、手代両人の者の申し分は左候はば、そのからミにて銀10匁吹き候はば、5匁小走りに出しさせ候え、20匁吹き候はば10匁、ないし50匁も吹き候はば20匁も、小走りに出し候えと申し候由、
善介の申し分は、このからミに、何ほど銀有るべくの儀も知らず事候ゆえに、銀5匁にて、合点致させ候様にと、善介申し候えば、手代の者合点にて、銀子5匁請い取り候由、
然るところに、小走り右両人5匁にては合点致しまじく由申し候て、腹を立て返し候由、これについては、喜三郎同宿の伊勢與五右衛門の申し分は、さて何ほど銀子御取り有るべきと申し候て、大声致し候由、
小走りどもの申し分は、右より善介策媒候ところを、脇より指し出し、入らず儀申し候と叱り候由、與五右衛門の申し分は、同宿に居候へば、喜三郎は同前の事候ゆえに、さて申すことに候て、雑言を小走りどもと云い合い候由、
然るところに、床役手代の四郎兵衛が奥より木刀を持ち来り、夜中に参り、大声致し、慮外の由申し候て、與五右衛門の頭を病ませ候由、これについては與五右衛門が刀を押し回し候由、脇より床役屋の者共集まり、刀を取り、昨夜半の時分(川井)加兵の所へ持参候、夜中に候ゆえに、双方返し候、今朝 加兵・我(梅津政景)等同前に、右の様子詮索致し候、
加兵・我等の申し分は、からミの札なく候て、からミ持ち通り候分には、1ヶ月の役銀にて相済み候えば、是に子細なし、そのうえ銀子2匁ずつ手代両人に出し候えば、喜三郎儀は、無残(かわいそう)なところの様子に候ところに、右これからミを小走りども取るべしと申す儀は不届きなり、何処よりの教えぞと尋ね候えば、床役持4人の者は申すに及ばず、手代2人の者も申さず、右策媒人善介の有日の物語りに、後々もからミ札取らずして、からミなど持ち歩き候者をば、役儀は役屋へ取り、からミをば小走りどもはながみ分に致し候と申し候ゆえに、取り申すべくと申し候由、
挨拶致し候、善介に尋ね候えば、我等床屋を致し候て居候えども、からミの出入りの儀、手前の儀申すに及ばず候、仲間のをも不承知候、このたび始めての由返答致し候、
加兵・我等の申し分は、両人の小走りいよいよ曲事なり、よしんば4人の床役持候者の申し付けか、また手代両人の申し付けか、さ無くば、いづこの奉行の代にも左様の引きかけあるか、又何者の役持候時の覚もあって申し候ども、二重取りにて不届きなるところに、あまつさえ何も知らぬ善介の物語りによって、からミ押さえたるなどと、公儀への志尚人に成り難き曲事の由申し付け候、
また手代四郎兵衛に申し付け分は、小走りども、不届きの儀申し出候ども、申し付け、おさえは到らず、その身どもの申したきままに申させ、その上小走りと與五右衛門抗い口論の衍儀、双方召し連れ、披露は致さず、木刀をもって、與五右衛門の頭を病ませ候事、小走りの不届き、口論を請け取り、喧嘩相手になり候間、過銀1枚を出し候えと申し付け候、
また與五右衛門に申し付け分は、床役小走りの者無理なる儀申し出候はば、喜三郎とかく挨拶致し、成らず所をば披露致すべきところに、同宿といいながら、喜三郎よりさし出し、その身入れずからかい致し候、その上四郎兵衛が木刀をもって、頭を病ませ候はば、そのまま逃げ来り、披露致し候はば、その身道理にこれ有るべきところに、刀のそりをなおし、抗い候えば喧嘩なり、その科に過銀1枚を致し候えと申し付け候、
但し右覚右衛門・覚蔵の事は、山師どもがしきりに詫び言致しに付きて、牢より出し、8月27日の夜、山師どもに渡し、山中を追い払い申し候。
2. 梅津政景日記巻二下
院内銀山春諸役御運上銀請取覚帳 慶長18年3月8日
・入役 正月より6月晦日までの分 高31貫目也 加賀長兵衛
------
・床役 てつ、からみ共に 正月より6月晦日までの分 高15貫550目也 能登太郎兵衛・同太郎右衛門・山先正左衛門
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地子役、板役、流役、傾城役、煙草役、炭灰役、砰(ずり)役・山川共に、麺類役、番匠・檜物・桶役、造り酒役、湯風呂役、鍛冶役、道砰・鑿脇役、灰吹役、米の小売役、餅米役、材木役、具米・引喰役、あと院内の7つの役
まとめ
1. 文中の「からみ」の表記は18ヶ所全て「からミ」である。「鍰」は使っていない。院内銀山で「からミ」が使われていたことから、銅吹きより以前に銀吹きに「からミ」と使われていたがわかった。よって、より古くから銀吹きをしていた石見銀山で使われていた可能性が高い。石見銀山の古文書で慶長18年以前のもので「からみ」を探そう。
2. 「からミの札」「からみ役(税)」があった。院内銀山では、業者や商店に27種の税(役)を課けた。その中で、床屋は、床役と共に、からみ役を納めた。からミには、銀がまだ含まれているので、吹けば銀が得られる価値あるものであった。
注 引用文献
1. 大日本古記録「梅津政景日記一」(上)p219~222(図1.2.3.) (下)p236~238(図4) (岩波 昭和28年 1953)
例言には、秋田県立秋田図書館の梅津政景自筆の原本で校正したと記されている。
図1. 梅津政景日記 慶長18年 「からミ」部分1
図2. 梅津政景日記 慶長18年 「からミ」部分2
図3. 梅津政景日記 慶長18年 「からミ」部分3
図4. 梅津政景日記 慶長18年院内銀山春諸役御運上銀請取覚帳の一部分
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