鉱山至宝要録に、吉田利兵衛・平賀源内の技術指導や安永・天明期の院内銀山の盛況を加筆した人が、原本を写す際、「鍰」に書き換えた可能性があると「からみ・鍰の由来(5)(7)」で指摘した。本報では、その加筆者を特定し、「鍰」書き換えの可能性を推理する。
「鉱山至宝要録」工学史料1)
覚 →図1
・此度、吉田利兵衛*・平賀源内、従江戸表被相頼、當山へ罷下、数日逗留の上、別で利兵衛事、山方巧者にて、山内一体稼方・山普請を始め、荷堀・吹方、数々の仕法、無残處、深切に致伝授、何も日々稼方、甚順宜相成、於上、御満悦被成置候。自分共、是迄の致癖不相泥、伝授の趣、大切に相守、往々御上の御為を存有其人を撰み、能々相伝可申候。且、---
・冥加銀定法 ---
安永2癸巳年(1773)7月
*吉田利兵衛は石見銀山山師である。
→図2,3
右、吉田利兵衛・平賀源内、被差下候て、御直吹御仕法、御取行。同年(1773)11月中、石田久太郎・私等、両人再興被仰付、罷越候節、1日出銀30目にも相至不申候所、翌午年(1774)1ヶ年に吹銀28貫目余吹出し、未年(1775)より36~7貫目、それより年々相増、50貫目・60貫目、子年(1780)は、80貫目余吹出し候處、翌丑年(1781)春中より、御注進、同8月、横堀村斎藤東五郎・菅野忠助と申者に、御渡被成置、寅年(1782)富澤茂兵衛と申者、山巧者の由にて、三戸部新助様御登山、右御仕法御止被成置候。寅年(1782)より午年(1786)迄5ヵ年の間、鋪々埋り、亡山同前に致候處、午(1786)10月、我等又候被仰付、罷越候えば、無間御山勢引直、10月中に8~90目、100匁に相成、翌(天明7 1787)2月に罷成候てば、既に200目山に相成、山中引立候。
ここに記した「私」が加筆者である。この書には、名前が書かれていないので、他の文書から、この者を特定する。インタネットで調べた結果、「出羽国久保田佐竹家家中小貫家文書目録解題」により、この者が大葛金山(おおくぞきんざん)の山師荒谷忠右衛門とわかった。
「出羽国久保田佐竹家家中小貫家文書目録解題」2)
享保10年(1725)院内銀山は請山となり、その後直山、請山を繰返した。安永2年(1773)大葛金山の山師荒谷忠右衛門・阿仁銅山の山師石田久太郎が山師明石儀左衛門とともに院内の稼行を命ぜられ、久太郎が翌年阿仁に帰り、儀左衛門は病死したが、直山9ヶ年に金1040両余を藩に収めたという。天明元年(1781)秋斎藤東五郎らの請山となり、翌年富沢善(茂?)兵衛が直山支配人となったが、山勢は振わなかった。天明6年(1786)10月藩の懇望により、荒谷和三郎は親(叔父?)忠右衛門に代わって大葛より院内に赴き、寛政元年(1789)10月支配を辞するまでかなりの成功をみた。安永3~天明元年8月、銅6年10月~寛政元年7月の荒谷氏支配人時代の産銀は年平均50貫目を超すのである。
考察
鉱山至宝要録の加筆部分と小貫家文書解題との内容、荒谷家文書解題3)を突き合わせることにより、大葛金山の山師7代目荒谷忠右衛門・冨暠が、加筆者であることがわかった。
荒谷家系図によると、7代目忠右衛門・冨暠は、幼名辰之丞、寛政元年(1789)、院内銀山にて没している。この忠右衛門の弟、8代目忠左衛門・冨光は安永7年に没しており、その子が9代目忠右衛門・冨訓(和三郎・銀右衛門)で宝暦11年(1761)に生まれ、文化13年(1816)没している。よって忠右衛門・冨暠が加筆した時期は、天明7年(1787)2月から寛政元年(1789)の間である。
加筆の内容を読むと、院内銀山の吹方技術向上のために、吉田利兵衛・平賀源内が、来訪した事、自分たちが安永・天明期に院内銀山を繁栄させた事を記録に残したくて加筆したことがわかる。黒澤元重の鉱山技術書を補足したいという事ではない。よって本文に手を加えるとか、字を書き換えるという事はしなかったと思う。よって荒谷忠右衛門よりもっと後の人が、黒澤の原本と荒谷忠右衛門の加筆部分を写す際に、「鍰」を使ったと考えるのが妥当である。
まとめ
鉱山至宝要録の加筆は大葛金山山師の荒谷忠右衛門によって1787~1789年の間になされたことがわかったが、彼は、原本の「からミ」を「鍰」に書き換えることはしなかったと推定した。より後の人が「鍰」に書き換えたと推定した。
注 引用文献
1. web. 「工学史料キュレーションデータベース>鑛山至寶要録上 コマ数57(図1)、60(図2)、61(図3)
2. web. 編集国立史料館「出羽国久保田佐竹家家中小貫家文書目録解題」 史料館所蔵史料目録 第33集 p66 (昭和56. 1981) 秋田藩の家臣であった小貫家文書。
3. web. 編集国立史料館「荒谷家文書目録解題」 史料館所蔵史料目録 第18集 p56 荒谷家系図(昭和46. 1971) 秋田郡大葛金山支配人であった荒谷家文書。
図1. 鑛山至寶要録上 加筆部 覚(工学史料)
図2. 鑛山至寶要録上 加筆部 覚(つづき)(工学史料)
図3. 鑛山至寶要録上 加筆部 覚(つづき)(工学史料)
「鉱山至宝要録」工学史料1)
覚 →図1
・此度、吉田利兵衛*・平賀源内、従江戸表被相頼、當山へ罷下、数日逗留の上、別で利兵衛事、山方巧者にて、山内一体稼方・山普請を始め、荷堀・吹方、数々の仕法、無残處、深切に致伝授、何も日々稼方、甚順宜相成、於上、御満悦被成置候。自分共、是迄の致癖不相泥、伝授の趣、大切に相守、往々御上の御為を存有其人を撰み、能々相伝可申候。且、---
・冥加銀定法 ---
安永2癸巳年(1773)7月
*吉田利兵衛は石見銀山山師である。
→図2,3
右、吉田利兵衛・平賀源内、被差下候て、御直吹御仕法、御取行。同年(1773)11月中、石田久太郎・私等、両人再興被仰付、罷越候節、1日出銀30目にも相至不申候所、翌午年(1774)1ヶ年に吹銀28貫目余吹出し、未年(1775)より36~7貫目、それより年々相増、50貫目・60貫目、子年(1780)は、80貫目余吹出し候處、翌丑年(1781)春中より、御注進、同8月、横堀村斎藤東五郎・菅野忠助と申者に、御渡被成置、寅年(1782)富澤茂兵衛と申者、山巧者の由にて、三戸部新助様御登山、右御仕法御止被成置候。寅年(1782)より午年(1786)迄5ヵ年の間、鋪々埋り、亡山同前に致候處、午(1786)10月、我等又候被仰付、罷越候えば、無間御山勢引直、10月中に8~90目、100匁に相成、翌(天明7 1787)2月に罷成候てば、既に200目山に相成、山中引立候。
ここに記した「私」が加筆者である。この書には、名前が書かれていないので、他の文書から、この者を特定する。インタネットで調べた結果、「出羽国久保田佐竹家家中小貫家文書目録解題」により、この者が大葛金山(おおくぞきんざん)の山師荒谷忠右衛門とわかった。
「出羽国久保田佐竹家家中小貫家文書目録解題」2)
享保10年(1725)院内銀山は請山となり、その後直山、請山を繰返した。安永2年(1773)大葛金山の山師荒谷忠右衛門・阿仁銅山の山師石田久太郎が山師明石儀左衛門とともに院内の稼行を命ぜられ、久太郎が翌年阿仁に帰り、儀左衛門は病死したが、直山9ヶ年に金1040両余を藩に収めたという。天明元年(1781)秋斎藤東五郎らの請山となり、翌年富沢善(茂?)兵衛が直山支配人となったが、山勢は振わなかった。天明6年(1786)10月藩の懇望により、荒谷和三郎は親(叔父?)忠右衛門に代わって大葛より院内に赴き、寛政元年(1789)10月支配を辞するまでかなりの成功をみた。安永3~天明元年8月、銅6年10月~寛政元年7月の荒谷氏支配人時代の産銀は年平均50貫目を超すのである。
考察
鉱山至宝要録の加筆部分と小貫家文書解題との内容、荒谷家文書解題3)を突き合わせることにより、大葛金山の山師7代目荒谷忠右衛門・冨暠が、加筆者であることがわかった。
荒谷家系図によると、7代目忠右衛門・冨暠は、幼名辰之丞、寛政元年(1789)、院内銀山にて没している。この忠右衛門の弟、8代目忠左衛門・冨光は安永7年に没しており、その子が9代目忠右衛門・冨訓(和三郎・銀右衛門)で宝暦11年(1761)に生まれ、文化13年(1816)没している。よって忠右衛門・冨暠が加筆した時期は、天明7年(1787)2月から寛政元年(1789)の間である。
加筆の内容を読むと、院内銀山の吹方技術向上のために、吉田利兵衛・平賀源内が、来訪した事、自分たちが安永・天明期に院内銀山を繁栄させた事を記録に残したくて加筆したことがわかる。黒澤元重の鉱山技術書を補足したいという事ではない。よって本文に手を加えるとか、字を書き換えるという事はしなかったと思う。よって荒谷忠右衛門よりもっと後の人が、黒澤の原本と荒谷忠右衛門の加筆部分を写す際に、「鍰」を使ったと考えるのが妥当である。
まとめ
鉱山至宝要録の加筆は大葛金山山師の荒谷忠右衛門によって1787~1789年の間になされたことがわかったが、彼は、原本の「からミ」を「鍰」に書き換えることはしなかったと推定した。より後の人が「鍰」に書き換えたと推定した。
注 引用文献
1. web. 「工学史料キュレーションデータベース>鑛山至寶要録上 コマ数57(図1)、60(図2)、61(図3)
2. web. 編集国立史料館「出羽国久保田佐竹家家中小貫家文書目録解題」 史料館所蔵史料目録 第33集 p66 (昭和56. 1981) 秋田藩の家臣であった小貫家文書。
3. web. 編集国立史料館「荒谷家文書目録解題」 史料館所蔵史料目録 第18集 p56 荒谷家系図(昭和46. 1971) 秋田郡大葛金山支配人であった荒谷家文書。
図1. 鑛山至寶要録上 加筆部 覚(工学史料)
図2. 鑛山至寶要録上 加筆部 覚(つづき)(工学史料)
図3. 鑛山至寶要録上 加筆部 覚(つづき)(工学史料)
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