真吹が山下吹の核心の技術である。この真吹は日本の大発明であり、外国(中国、朝鮮、南蛮など)から伝来したものではない。江戸初期に摂津国多田の山下町下財屋敷で発明されて山下吹といわれてきた。このブログでは、真吹が江戸期の主要銅山でいつから実施されていたかを明らかにしてきた。ここでそれらの時期を比較して、技術の伝搬がどうであったかを見てみたい。特に東北の銅山の吹き方は、素吹で得られた鈹を煆焼(酸化銅にする)する工程があり、真吹でなかったという説があったが、それもあわせて確認したい。真吹の実施年について書かれた過去の当ブログに基づいて整理した。1)
次の基準で各銅山の真吹開始年を特定し、真吹年表を作成した。→図
① 真吹をしていると記した文書や本の著作年を真吹記録年とした。過去にさかのぼって、いついつ真吹したという記述は、信頼性が下がるのでその年は採用しなかった。その場合は、その記述の文書や本の著作年を真吹記録年とした。
② 真吹推定年は、種々の事柄から筆者が真吹をしていたのではないかと推理した年を挙げた。推定根拠も簡単に記した。
図 真吹年表
太線----------真吹(記録年→)
中細線-------真吹推定(推定年→)
細線----------銅山稼行(開坑→)
特記事項
(1)阿仁銅山
秋山喜右衛門光春が享保10年(1725)に著した秋田金山(かねやま)旧記の中の「秋田郡阿仁銀山之次第聞書」によれば、阿仁銅山は享保10年(1725)に真吹であった。元禄4年著の「鉱山至宝要録」には、「素吹したる鈹を真吹して銅を得る」とある。著者の黒澤元重は、秋田藩士で延宝2年(1674)に「かね山」の役を申付けられ、同4年(1676)まで一人で惣山奉行となっている。「鉱山至宝要録」は主に、秋田藩院内銀山について書かれていて、銅山についての記述は簡単である。しかし銅の吹方についての記述は、秋田藩の阿仁銅山などのやり方を聞いているから書けたことであるに違いない。延宝2年から元禄4年の間に、吹方に変更があったとは記されていないので、延宝2年(1674)から真吹を実施していると推定しもよいのではないか。阿仁銅山の開坑は寛文10年(1670)であることと、黒澤元重の「かね山」役就任年が延宝2年(1674)であることから、両者の年は、非常に近く、このことから、阿仁銅山は開坑当時から真吹を実施していた可能性が高い。
(2)足尾銅山
享保15年(1730)の足尾吹が、素吹して真吹していることから、1730年を真吹記録年とした。開坑当時に間吹銅が徳川幕府に献上されたと文書にあるが、この間吹銅が、真吹で得られた真吹銅(荒銅)か、真吹あるいは還元法で得られた荒銅を、間吹して得られた間吹銅(精銅)か判定できない。献上したとあるので見栄えをよくするために、荒銅を間吹して得た間吹銅(精銅)であった可能性が高い。またその文書が120~180年後に書かれたこともあり、真吹推定年ともし難い。開坑年(1610)から1730年の間に吹き方を記録した文書を見たい。
(3)生野銀銅山
銀山旧記(著述年1690)に寛永9年(1632)にかたけ吹きが伝えられたと記録があるが、かたけ吹に真吹があるとは書かれていない。かたけ吹の工程の中に真吹が記されたものは、銀山秘録(天保14年(1843))である。
(4)多田銀銅山
寛文6年(1666)にほとんどの吹屋が、かたけ吹をしており、真吹を含んでいた可能性が高いので真吹推定年とした。1749年には、真吹が含まれていたことが記録されている。
(5)吉岡銅山
筆者が調査した限りでは、貞享2年(1685)の吉岡銅山の真吹が真吹記録年として最初である。
まとめ
1. 江戸期の主要銅山について真吹年表を作成した。最初の真吹記録年は、吉岡銅山の貞享2年(1685)であった。
2. 阿仁銅山は寛文の開坑時から真吹をしていた可能性が高い。それ以外の吹き方の記載は見つからなかった。
3. 記録のない足尾銅山を除いて、元禄(1700)前後には、どこも真吹をしていたと言ってもよい状況であった。
4. 輸出で銅生産高の大幅に増大した寛文年間(1670年代)から、銅山は真吹であった可能性が高い。
5. 初期のかたけ吹に、真吹が含まれていた可能性は高い。そうならば寛永(1630)頃に真吹がなされていたことになる。
6. 真吹は慶長元年~10年(1596~1605)頃に発明されたとの推定は妥当である。
注 引用文献
1. 関連する当ブログは以下のとおりである。
山下吹(24) 別子銅山は、元禄12年(1699)に真吹であった
山下吹(23) 熊野永野銅山は宝永頃(1704~)に真吹であった
山下吹(22) 阿仁銅山は享保10年(1725)に真吹であった
山下吹(21) 享保15年(1730)の足尾吹は、真吹であった
山下吹(20) 尾去沢銅山は、宝永2年(1705)に真吹であった
山下吹(19) 鉱山至宝要録(元禄4年1691)は、真吹であった
山下吹(18) 別子銅山の山下吹
山下吹(11) 山下吹の発明者は?
山下吹(10) 西尾銈次郎の山下吹
山下吹(8) 渡邊渡の山下吹
山下吹(7) 足尾銅山(維新前)の山下吹
山下吹(5) 多田銀銅山は寛延2年(1749)「鉑石吹様之次第」は、かたけ吹か
山下吹(4) 多田銀銅山のかたけ吹
山下吹(3) 生野銀山の「かたけ吹」とは?
山下吹(2) 山下吹の初出は「宝の山」か
山下吹(1) 発祥の地とされる摂津国多田山下町
江戸期の---(5)の中に 「吉岡銅山は、貞享2年(1685)に真吹であった」
次の基準で各銅山の真吹開始年を特定し、真吹年表を作成した。→図
① 真吹をしていると記した文書や本の著作年を真吹記録年とした。過去にさかのぼって、いついつ真吹したという記述は、信頼性が下がるのでその年は採用しなかった。その場合は、その記述の文書や本の著作年を真吹記録年とした。
② 真吹推定年は、種々の事柄から筆者が真吹をしていたのではないかと推理した年を挙げた。推定根拠も簡単に記した。
図 真吹年表
太線----------真吹(記録年→)
中細線-------真吹推定(推定年→)
細線----------銅山稼行(開坑→)
特記事項
(1)阿仁銅山
秋山喜右衛門光春が享保10年(1725)に著した秋田金山(かねやま)旧記の中の「秋田郡阿仁銀山之次第聞書」によれば、阿仁銅山は享保10年(1725)に真吹であった。元禄4年著の「鉱山至宝要録」には、「素吹したる鈹を真吹して銅を得る」とある。著者の黒澤元重は、秋田藩士で延宝2年(1674)に「かね山」の役を申付けられ、同4年(1676)まで一人で惣山奉行となっている。「鉱山至宝要録」は主に、秋田藩院内銀山について書かれていて、銅山についての記述は簡単である。しかし銅の吹方についての記述は、秋田藩の阿仁銅山などのやり方を聞いているから書けたことであるに違いない。延宝2年から元禄4年の間に、吹方に変更があったとは記されていないので、延宝2年(1674)から真吹を実施していると推定しもよいのではないか。阿仁銅山の開坑は寛文10年(1670)であることと、黒澤元重の「かね山」役就任年が延宝2年(1674)であることから、両者の年は、非常に近く、このことから、阿仁銅山は開坑当時から真吹を実施していた可能性が高い。
(2)足尾銅山
享保15年(1730)の足尾吹が、素吹して真吹していることから、1730年を真吹記録年とした。開坑当時に間吹銅が徳川幕府に献上されたと文書にあるが、この間吹銅が、真吹で得られた真吹銅(荒銅)か、真吹あるいは還元法で得られた荒銅を、間吹して得られた間吹銅(精銅)か判定できない。献上したとあるので見栄えをよくするために、荒銅を間吹して得た間吹銅(精銅)であった可能性が高い。またその文書が120~180年後に書かれたこともあり、真吹推定年ともし難い。開坑年(1610)から1730年の間に吹き方を記録した文書を見たい。
(3)生野銀銅山
銀山旧記(著述年1690)に寛永9年(1632)にかたけ吹きが伝えられたと記録があるが、かたけ吹に真吹があるとは書かれていない。かたけ吹の工程の中に真吹が記されたものは、銀山秘録(天保14年(1843))である。
(4)多田銀銅山
寛文6年(1666)にほとんどの吹屋が、かたけ吹をしており、真吹を含んでいた可能性が高いので真吹推定年とした。1749年には、真吹が含まれていたことが記録されている。
(5)吉岡銅山
筆者が調査した限りでは、貞享2年(1685)の吉岡銅山の真吹が真吹記録年として最初である。
まとめ
1. 江戸期の主要銅山について真吹年表を作成した。最初の真吹記録年は、吉岡銅山の貞享2年(1685)であった。
2. 阿仁銅山は寛文の開坑時から真吹をしていた可能性が高い。それ以外の吹き方の記載は見つからなかった。
3. 記録のない足尾銅山を除いて、元禄(1700)前後には、どこも真吹をしていたと言ってもよい状況であった。
4. 輸出で銅生産高の大幅に増大した寛文年間(1670年代)から、銅山は真吹であった可能性が高い。
5. 初期のかたけ吹に、真吹が含まれていた可能性は高い。そうならば寛永(1630)頃に真吹がなされていたことになる。
6. 真吹は慶長元年~10年(1596~1605)頃に発明されたとの推定は妥当である。
注 引用文献
1. 関連する当ブログは以下のとおりである。
山下吹(24) 別子銅山は、元禄12年(1699)に真吹であった
山下吹(23) 熊野永野銅山は宝永頃(1704~)に真吹であった
山下吹(22) 阿仁銅山は享保10年(1725)に真吹であった
山下吹(21) 享保15年(1730)の足尾吹は、真吹であった
山下吹(20) 尾去沢銅山は、宝永2年(1705)に真吹であった
山下吹(19) 鉱山至宝要録(元禄4年1691)は、真吹であった
山下吹(18) 別子銅山の山下吹
山下吹(11) 山下吹の発明者は?
山下吹(10) 西尾銈次郎の山下吹
山下吹(8) 渡邊渡の山下吹
山下吹(7) 足尾銅山(維新前)の山下吹
山下吹(5) 多田銀銅山は寛延2年(1749)「鉑石吹様之次第」は、かたけ吹か
山下吹(4) 多田銀銅山のかたけ吹
山下吹(3) 生野銀山の「かたけ吹」とは?
山下吹(2) 山下吹の初出は「宝の山」か
山下吹(1) 発祥の地とされる摂津国多田山下町
江戸期の---(5)の中に 「吉岡銅山は、貞享2年(1685)に真吹であった」
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