寺尾春清・宗清らは、六角形青銅燈籠に続いて、八角形青銅燈籠を金毘羅宮に奉献した。
八角形青銅燈籠(W-283) 旭社本殿からの参詣下り道の上り坂の角 青銅本体の高さ255cm1) →図、写1、写2、写3、写4
火袋 八面 「金」の透かし彫り
竿 正面上部 寶永三丙戌年 下部 豫州天満村願主
奉獻 寺尾 善三春清
金毘羅大権現 同 九兵衛尉宗清
十月吉日 同 十郎右衛門尉貞清
背面下部 請負人 大坂備後町堺筋 舛屋甚兵衛
細工人 大坂 松井太兵衛
基壇は花崗岩製、二段で高さ57cmである。
全文字が凸(陽鋳)である。この燈篭は、奉献当時のままであろう。宝珠は玉形。
考察
1. 願主について
宝永3年(1706)において、五代当主だった春清は隠居しており、現在は宗清が六代寺尾九兵衛として当主を務めている。この関係は、六角形青銅燈籠を奉献した元禄9年頃と同じである。
十郎右衛門尉貞清は、六角形青銅燈籠を奉献した時は、単に十郎右衛門であったので、役が重くなったと言える。ただ十郎右衛門尉貞清は、春清との続柄が不明である。尉を持ち、二代九兵衛の名「貞清」をもらっていることから、庄屋職の可能性がある。上天満村庄屋(西条藩)の名は「九郎兵衛」と古文書にあるが、2)その人の名でもあるのか。
奉献した宝永3年(1706)は、別子粗銅が天満村を通らなくなって4年後である。今後の廻船業や地元産業の発展を願ってこの青銅燈籠を奉献したのであろうか。無病息災も願っていたであろうが、
春清は宝永6年(1709)に、追うようにして、宗清が正徳2年(1712)に亡くなった。
2. 請負人について
大坂備後町堺筋舛屋甚兵衛が請負人である。燈籠の製作だけを請け負ったのか、金毘羅宮への設置までも含めて請け負ったのかはわからない。
「舛屋甚兵衛」をインターネット検索したら、2件の関係ありそうなものが見つかった。
① 「ごさんべえのぺーじ」3)には「源平の昔に三備(備前、備中、備後)を治めた平家の武将妹尾太郎兼康の後裔で津山市住の舛屋甚兵衛兼恒(寛延2年(1749)没)がいた。この人の祖父の代から商家となった。舛屋という屋号から測量器などを扱っていたのかもしれません。」とある。
② 「音釋文段批評莊子鬳齋口義大成俚諺鈔」4)の本の末尾には「元禄16癸未歳5月吉日 書林 舛屋甚兵衛・銭屋庄兵衛」とある。書林とは出版社のこと。銭屋庄兵衛は他にも多数の本を出版しているが、舛屋甚兵衛はこの本しか見つからなかった。
津山市の商家舛屋甚兵衛兼恒と出版社舛屋甚兵衛とは同一人物の可能性がある。商家甚兵衛の没年寛延2年は、元禄16年(1703)の(1749-1703=)46年後であるで、年令的に考えてもありうる。大坂にも商家を構えていたのではないか。 「莊子口義俚諺鈔」の共同出版社である銭屋庄兵衛は、京都堀川通綾小路下ル町にあるので、舛屋甚兵衛が大坂住であってもおかしくない。舛屋は本の出版は早々に止めて、別の商いに転じたのかもしれない。その頃に寺尾春清から青銅燈籠の金毘羅宮への奉献を請け負ったのではないだろうか。
3. 角字について
竿の節に角字で十二支が記されている。その角字と筆者が読んだ十二支を示した。→ 写5
角字はデザイン文字なので、漢字のように決まったものではないようで、出版社であったかもしれない請負人舛屋甚兵衛が絡んでいるのか、細工人自身がデザインしたものであるのか。凝っていてめずらしく、青銅燈籠では初めて見た。
まとめ
1. 別子粗銅が天満村を通らなくなって4年後の宝永3年に春清・宗清は金毘羅宮へ八角形青銅燈籠を奉献した。
2. この燈籠は六角形燈籠より後に大坂で作られた。
3. 竿の節に十二支の角字がデザインされている。
注 引用文献
1. 金毘羅庶民信仰資料集第3巻p238下向道の燈籠W-283(日本観光文化研究所編 金刀比羅宮社務所、昭和59年 1984) web.国会図書館デジタルコレクション →図
2. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(10) 寛文7年に家50軒250石積廻船があった」(2024-9-1)
3. ホームページ「ごさんべえのぺーじ」>妹尾家・舛屋
4. 「国書データベース」>音釋文段批評莊子鬳齋口義大成俚諺鈔 デジタルデータ コマ数730/731
図 寺尾春清・宗清宝永3年奉献の八角形青銅燈籠W-283(金毘羅庶民信仰資料集より)
写1 寺尾春清・宗清宝永3年奉献の八角形青銅燈籠
写2 青銅燈籠の竿正面
写3 青銅燈籠の竿正面奉献者名
写4 青銅燈籠の竿背面下部冶工名
写5 青銅燈籠の節の十二支角字
八角形青銅燈籠(W-283) 旭社本殿からの参詣下り道の上り坂の角 青銅本体の高さ255cm1) →図、写1、写2、写3、写4
火袋 八面 「金」の透かし彫り
竿 正面上部 寶永三丙戌年 下部 豫州天満村願主
奉獻 寺尾 善三春清
金毘羅大権現 同 九兵衛尉宗清
十月吉日 同 十郎右衛門尉貞清
背面下部 請負人 大坂備後町堺筋 舛屋甚兵衛
細工人 大坂 松井太兵衛
基壇は花崗岩製、二段で高さ57cmである。
全文字が凸(陽鋳)である。この燈篭は、奉献当時のままであろう。宝珠は玉形。
考察
1. 願主について
宝永3年(1706)において、五代当主だった春清は隠居しており、現在は宗清が六代寺尾九兵衛として当主を務めている。この関係は、六角形青銅燈籠を奉献した元禄9年頃と同じである。
十郎右衛門尉貞清は、六角形青銅燈籠を奉献した時は、単に十郎右衛門であったので、役が重くなったと言える。ただ十郎右衛門尉貞清は、春清との続柄が不明である。尉を持ち、二代九兵衛の名「貞清」をもらっていることから、庄屋職の可能性がある。上天満村庄屋(西条藩)の名は「九郎兵衛」と古文書にあるが、2)その人の名でもあるのか。
奉献した宝永3年(1706)は、別子粗銅が天満村を通らなくなって4年後である。今後の廻船業や地元産業の発展を願ってこの青銅燈籠を奉献したのであろうか。無病息災も願っていたであろうが、
春清は宝永6年(1709)に、追うようにして、宗清が正徳2年(1712)に亡くなった。
2. 請負人について
大坂備後町堺筋舛屋甚兵衛が請負人である。燈籠の製作だけを請け負ったのか、金毘羅宮への設置までも含めて請け負ったのかはわからない。
「舛屋甚兵衛」をインターネット検索したら、2件の関係ありそうなものが見つかった。
① 「ごさんべえのぺーじ」3)には「源平の昔に三備(備前、備中、備後)を治めた平家の武将妹尾太郎兼康の後裔で津山市住の舛屋甚兵衛兼恒(寛延2年(1749)没)がいた。この人の祖父の代から商家となった。舛屋という屋号から測量器などを扱っていたのかもしれません。」とある。
② 「音釋文段批評莊子鬳齋口義大成俚諺鈔」4)の本の末尾には「元禄16癸未歳5月吉日 書林 舛屋甚兵衛・銭屋庄兵衛」とある。書林とは出版社のこと。銭屋庄兵衛は他にも多数の本を出版しているが、舛屋甚兵衛はこの本しか見つからなかった。
津山市の商家舛屋甚兵衛兼恒と出版社舛屋甚兵衛とは同一人物の可能性がある。商家甚兵衛の没年寛延2年は、元禄16年(1703)の(1749-1703=)46年後であるで、年令的に考えてもありうる。大坂にも商家を構えていたのではないか。 「莊子口義俚諺鈔」の共同出版社である銭屋庄兵衛は、京都堀川通綾小路下ル町にあるので、舛屋甚兵衛が大坂住であってもおかしくない。舛屋は本の出版は早々に止めて、別の商いに転じたのかもしれない。その頃に寺尾春清から青銅燈籠の金毘羅宮への奉献を請け負ったのではないだろうか。
3. 角字について
竿の節に角字で十二支が記されている。その角字と筆者が読んだ十二支を示した。→ 写5
角字はデザイン文字なので、漢字のように決まったものではないようで、出版社であったかもしれない請負人舛屋甚兵衛が絡んでいるのか、細工人自身がデザインしたものであるのか。凝っていてめずらしく、青銅燈籠では初めて見た。
まとめ
1. 別子粗銅が天満村を通らなくなって4年後の宝永3年に春清・宗清は金毘羅宮へ八角形青銅燈籠を奉献した。
2. この燈籠は六角形燈籠より後に大坂で作られた。
3. 竿の節に十二支の角字がデザインされている。
注 引用文献
1. 金毘羅庶民信仰資料集第3巻p238下向道の燈籠W-283(日本観光文化研究所編 金刀比羅宮社務所、昭和59年 1984) web.国会図書館デジタルコレクション →図
2. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(10) 寛文7年に家50軒250石積廻船があった」(2024-9-1)
3. ホームページ「ごさんべえのぺーじ」>妹尾家・舛屋
4. 「国書データベース」>音釋文段批評莊子鬳齋口義大成俚諺鈔 デジタルデータ コマ数730/731
図 寺尾春清・宗清宝永3年奉献の八角形青銅燈籠W-283(金毘羅庶民信仰資料集より)
写1 寺尾春清・宗清宝永3年奉献の八角形青銅燈籠
写2 青銅燈籠の竿正面
写3 青銅燈籠の竿正面奉献者名
写4 青銅燈籠の竿背面下部冶工名
写5 青銅燈籠の節の十二支角字
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