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天満村寺尾九兵衛(25) 第六代九兵衛宗清とツタの結婚及び子供たち

2024-12-15 09:11:33 | 趣味歴史推論
 天満村大庄屋五代寺尾九兵衛春清が田向重右衛門と会談し、別子銅山稼働後に当主を継いだのが六代宗清である。宗清の妻がツタであり、夫亡き後、坂之内池を(築造し)水を引いた女傑であった。ツタを中心に一家を追っていきたい。

1. ツタは新居郡大島浦の上野庄左衞門家から嫁いできた。土居町誌によれば 1)「上野家は代々伊賀の国上野の城主であったが、豊臣秀吉に攻略せられ、大島の豪族村上氏を頼って土着したが、男がなくて、村上氏から養子を迎えたその子孫である。従ってツタには武将と伊予水軍の地が流れていた。」

 ツタの位牌
   寛延4辛未年2月16日(1751)
  梵字ア 實乗妙空大姉霊位

 位牌を納めた観音開きの厨子の背裏に
   施主 寺尾新兵衛
   出所大嶋浦上野庄左衞門娘
      俗名 寺尾おつた
      行年 七十四歳


 施主の寺尾新兵衛は、立場から云えば、八代当主貞之助英清と推定される。
 その当時の行年は数え年であったので、ツタの生年は、(1751-73=)1678年延宝6年である。
(1)いつ結婚したか
 ①豊かな家同士だったので、娘は数え年15~16で嫁いだ可能性がある。数え年15で嫁いだとすると、(1678+14=1692)元禄5年となる。
 ②寺尾九兵衛本家の位牌調査の結果、判明した事の一つに次のことがある。
 暫定当主年表2)に七代九兵衛として挙げた「寺尾庸清」(つねきよ)の存在がわかったことである。庸清は、宗清とツタの間に生まれた子に間違いなく、九兵衛とあるから当主を継いだことも確かである。
  庸清の位牌
   元文4己未歳10月29日
  梵字ア 實嚴道恕居士霊位

 裏面に
   俗名寺尾九兵衛庸清
   春秋43歳卒


 庸清の没年は1739年であり生年は(1739-42=1697)元禄10年である。ということは、ツタの結婚は元禄9年以前である。
 ③金毘羅宮への奉献燈籠の願主から
  石燈籠 元禄7年(1694) 寺尾氏春清
  六角形青銅燈籠 元禄9年(1696)頃 奉献者 寺尾善三春清 同九兵衛尉宗清 同十郎右衛門 
 六角形青銅燈籠の奉献年は1696年頃と筆者は推定しており、この年には、九兵衛宗清となっているので当主は宗清であることがわかる。この時には結婚していたと言える。
 一方、石燈籠には宗清の名がないことから宗清は当主でない可能性がある。同時に九兵衛春清と書かれていないことから、春清はすでに隠居している可能性もある。元禄7年には結婚していたかどうかは決められない。
 以上のことから、ツタの結婚は、位牌の情報からは元禄5~9年であり、燈籠の情報からは、元禄7~9年頃である。
(2)生んだ子供たちの育ち
 夫の宗清は正徳2年(1712)に亡くなっているので、最も遅い子供の生年は、正徳3年(1713)以前である。またツタの出産年令は数え年で31歳までと予想すると位牌の次の人たちが、ツタの子供に該当する。
 ① 庸清  元禄10年(1697)~元文4年(1739)
 ② 童女  没年月日 元禄13年正月15日(1700) 
 ③ 童子  没年月日 元禄13年6月28日(1700)
 ④ 童女  没年月日 宝永7年9月22日(1710)

 童子、童女は数え年5~15歳に付けられる戒名なので、その生年は
 ① 生年1697 ツタの年令(数え年)20に相当
 ② 生年1700-(4~14)=(1686~1696) ツタの年令(数え年)9~19に相当
 ③ 生年1700-(4~14)=(1686~1696) ツタの年令(数え年)9~19に相当
 ④ 生年1710-(4~14)=(1696~1706) ツタの年令(数え年)19~28に相当         
 これから考えられるケースとして、第1子②女児1695生、第2子③男児1696生、第3子①庸清1697生、第4子④(1698~1706)生。 または、第1子と第2子が入れ違うケースである。
 結局4人の子供が5歳以上に育ったが、成人したのは庸清一人だけであった。
 ケースから推測すると結婚は元禄7年(1694)頃でツタ17才である。その時、宗清が25才(数え年)とすると、宗清の生年は(1694-24=)1670年寛文10年となり、享年は43となる。ツタは(1712-1678+1=)35歳で寡婦となった。

(3)庸清は八代九兵衛であろう。
 当主年表 暫定版(2024.6)より2)
 五代九兵衛 春清 推定当主期間1680~1693  ~1709(宝永6年12月17日卒) 明穹法欽居士   
       妻               ~1715(正徳5年2月19日卒) 久山性永信尼 
 六代九兵衛 宗清       1693~1712  ~1712(正徳2年12月4日卒) 一白浄卯居士
       妻ツタ           1678~1751(寛延4年2月16日卒) 實乗妙空大姉 
 当主年表には、七代九兵衛として、庸清を挙げていたが、宗清が亡くなった正徳2年に、庸清は(1712-1697+1=)16歳にしかなっていない。大庄屋職が直ぐ務まるとは思えず、庸清の前に別の当主が一人いたと考えるのが妥当である。新たに七代当主を推定したので、次報でこの事を記したい。また貞之助英清は、ツタの実子でないことも貞之助英清の生年が享保5年(1720)であることから明らかである。

2. 大島浦吉祥寺の金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅(享保4年 1719)
 ツタの出身地の新居浜大島の真言宗吉祥寺には、二幅の曼荼羅がお祀りされている。(年二回春秋のみ開帳)それには次のように書かれている。3)4)
享保4年7月 両界曼陀羅 施主井筒屋上野庄左衛門 為天満寺尾九兵衛母儀 絵師東寺絵所大法印姉崎永喜(京都室町)」昭和48年再表装。
これによれば、大島の井筒屋上野庄左衞門は、娘ツタの姑(夫宗清の母=春清の妻)「久山性永信尼」をお祀りするために両界曼荼羅(絵師姉崎永喜 姑没後5年(1720)描)を寺尾家に納めた。そして江戸~明治の時代に 寺尾家から、この曼荼羅が縁のある吉祥寺に寄進されたと思われる。5)

まとめ
1. 新居郡大嶋浦上野庄左衛門の娘ツタは、六代九兵衛宗清と元禄7年頃結婚した。
2. 4人の子供が5歳以上に育ったが、成人したのは庸清一人だけであり、八代当主となった。
3. 夫宗清は正徳2年に(推定享年43)に没し、ツタは35歳で寡婦となった。
4. 上野家は、ツタの姑のお祀りに姉崎永喜作の両界曼荼羅を寺尾家に納めた。


注 引用文献
1. 土居町誌p832「坂之内池を築いた寺尾つた女」(執筆山上統一郎)(昭和59年 1984)
2. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(2) 大庄屋寺尾九兵衛当主年表」(2024-6-30)
3. ホームページ「新居浜市大島の毘沙門天・吉祥寺」>陽向山吉祥寺のご案内>両界曼陀羅図
→両界(金剛界・胎蔵法)曼荼羅の画像がある。
4. 姉崎永喜作の仏画について
兵庫県多可町政記者発表資料(令和5年) 「金蔵寺所蔵の姉崎永喜作仏画「薬師師三尊十二神将像図」「五大明王像図」「仏涅槃図」の3点を多可町指定文化財に指定した(2023.2.22)。」
姉崎永喜(?-1729)は、江戸時代の姉崎派ともいわれる仏画の絵師の一派の初祖。 延宝年間に当時より「絵所」辞令を受け、その後、真宗仏光寺派の本山である仏光寺の絵所を務める。
【姉崎永喜 作例】
・大宝寺 仏涅槃図 (長野県駒ケ根市指定文化財) 享保3年(1718)
・吉祥寺 金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅 (愛媛県新居浜市大島)享保4年(1719)
5. 土居町誌p89(執筆真鍋充親)「新居郡大島村の吉祥寺には寺尾家寄進の曼荼羅一対が秘蔵されている。まことに立派なものである。(ヲツタは大島村上野家の出であった)―参考明治45年天満村郷土誌―


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