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天満村寺尾九兵衛(27) 天満神社本殿は元禄11年に第六代宗清が寄進した

2025-02-23 08:34:02 | 趣味歴史推論
 天満神社の由緒によれば、1)元禄8年(1695)11月、天満宮本殿が焼失したので、菅公縁の地なりし宮山を清浄の地と選び、大庄屋寺尾九兵衛の寄進によって元禄11年(1698)9月社殿を建立し天満宮・八幡宮を奉斉し、明治40年(1907)に天満神社と改称し現在に至った。→写1
この天満神社本殿は、令和2年(2020)2月に愛媛県指定有形文化財(建造物)に指定された。「江戸時代の東予を代表する貴重な建築であり、江戸時代の優れた建築意匠を示す重要な建造物」として評価された。2)
 元禄11年(1698)は別子粗銅が天満村を通っている時期であり、大庄屋の当主は六代宗清であり、先代の春清は隠居していた。寺尾家としては、最も多忙で繁栄した時期であり、本殿の寄進はこうした時期になされたのである。
(1)建立年
神社の由緒には、元禄11年9月建立したとあるが、建築当初の棟札や資料は残されておらず、確認された棟札は安永4年(1778)「御正殿修繕」以降のものである。由緒に「元禄11年9月」と月まで詳しく書かれていることより、その根拠となる史料がどこかにあるはずである。本殿の屋根裏にあるのか、庄屋の文書にあるのか、関係ありそうな所はないだろうか。 
(2)大工 郷土史家の高橋暉洋は、「宇摩史談」において、竣工した大工を川之江村の宮崎家であると根拠を挙げて特定している。3)その箇所を以下に示した。

「天満神社の元禄の棟札が見つかっていませんが、当時の近隣の寺社棟札と建築の特徴をみると、(当時近隣の有力な寺社を一手に引き受けていた川之江村の)宮崎家の仕事であることが明らかになります。
 ・慶安2年(1649) 宮崎弥三右衞門  川之江八幡宮本殿
 ・寛文6年(1666) 宮崎弥五右衞門  今宮大明神一宇
 ・寛文8年(1668) 宮崎弥五右衞門  八幡神社宝殿
 ・天和3年(1683) 宮崎弥五右衞門  三角寺両澤権現社
 ・貞享4年(1687) 宮崎弥五右衞門  三角寺弥勒堂
 ・元禄5年(1692) 大工宮崎吉右衞門 小工宮崎与右衞門 大島八幡宮本殿
とあり、上記のような記録から、火事で焼失した本殿の再興にあたり「大島八幡宮の様に」との寺尾家の要望があったという地元の言い伝えや、さらに大島八幡宮と天満神社を比較すると、様式、彫物が一致する箇所が多いため、大島八幡宮の棟梁の宮崎家の仕事と判断できます。

(3)本殿の特徴・すばらしさ・すごさは、以下に記されている。
①四国中央市の広報4)
②天満公民館報5)→写2,3
(4)彫物 高橋暉洋は、興味深いことを指摘している。3)
 ①向拝蟇股の彫物 西行松 赤星山を望んで歌を詠む西行 関戸の西行岩
 ②唐破風の彫物  唐松 琴を弾く天女
 ③虹梁持送の彫物 象 獏 籠彫り
 ④向拝虹梁の木鼻 龍(後補)
 ⑤妻飾の彫物 三葉懸魚(後補) 牡丹 当社八幡神紋の五三桐 鬼の顔
 ⑥脇障子の彫物 松竹梅
 ⑦隠された彫刻 菊
 ⑧手挟の彫物 犀 鯉に乗る琴高仙人 蓑亀に乗る黄安仙人
 ⑨向拝の降懸魚 山鵲

まとめ
1. 天満神社本殿は元禄11年に第六代宗清が寄進したものである。
2. 大工は川之江村の宮崎家であることが、高橋暉洋により明らかにされた。
3. 天満神社本殿は、令和2年に愛媛県指定有形文化財(建造物)に指定された。「江戸時代の東予を代表する貴重な建築であり、江戸時代の優れた建築意匠を示す重要な建造物」として評価された。


注 引用文献
1. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(12)文明9年高橋太郎衛門が天満宮を建て天満村と名付けた」
2. web. 「愛媛県の文化財 - 愛媛県教育委員会」>県指定有形文化財>建造物>天満神社本殿
3. 高橋暉洋「旧天満村の天満神社本殿について」宇摩史談第107号p116(令和2年5月 2020)
4. web. 「広報四国中央」>令和2年6月号>「天満神社本殿が県指定有形文化財に指定」
5. 「天満・天神 学問の里巡り」巻末(天満公民館 令和3年 2021):郷土史家岡本圭次郎が公民館報「てんま」に(2001.11~2011.3)執筆した文をまとめたもの

写1. 天満神社本殿


写2. 天満神社本殿 愛媛県指定有形文化財に指定「天満・天神 学問の里巡り」より


写3. 天満神社本殿 技光る装飾彫刻 「天満・天神 学問の里巡り」より



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