切上り長兵衛の生涯を探るために、働いていた鉱山について調べた。特に長兵衛が渡り鉱夫として過ごした江戸前期(17世紀後半)の鉱山の様子についてである。
「宝の山」と「未来記」で「切上り、切上り長兵衛、庄屋長兵衛」が「稼いだ、掘った、致した」と書かれた鉱山は、以下の12か所である。筆者が推定する移動順に記した。
1. 三河 津具(つぐ)金山
2. 美濃 畑佐(はたさ)銅山
3. 越前 面谷(おもだに)鉛山
4. 播磨 桜(さくら)銅山
5. 豊後 尾平蒸籠(おびらこしき)銅山
6. 豊後 大平(おおひら)銅山
7. 出雲 橋波(はしなみ)銅山
8. 石見 岩屋(いわや)鉛山9)
9. 備中 白石(しらいし)銅山10)
10. 備中 吉岡(よしおか)銅山
11. 伊予 立川(たつかわ)銅山
12. 伊予 別子(べっし)銅山
これらの位置を図1に示した。
その当時の状況は以下のとおりである。
1. 三河 津具金山
愛知エースネットの津具金山によれば、1)
「津具に砂金の出ることを知った武田信玄は,元亀3年(1572)いち早くこの土地の砂金の採取を始めた。 金鉱脈を発見した武田氏は,その家臣を金堀の奉行とし,いわゆる甲州金二十四万両を ここから採掘したと語り継がれており,武田信玄が軍資金を得るために採掘したので,「信玄坑」とも呼ばれている。武田氏が長篠の戦いで敗戦した後は,織田信長が金山の継続を図った。信長の書状には,金を掘っていた鉱夫に対して 金を掘り続けるようにとの命令が書かれている。津具金山は徳川時代にも継続されたが,産出量の多い伊豆,佐渡の金山が 発見されてからは自然休山となった。」
筆者は、以上の記事から、切上り長兵衛が稼いだと思われる1660年頃は細々と掘っていたのではないかと想像する。
2. 美濃 畑佐銅山
岐阜県の地名「畑佐村」の項によれば、2)
「金山普請申付状では、銅山開発は延宝年間(1673-81)頃とも思われる。天和三年(1683)から5年間、新伝ヶ洞の開発を大坂屋惣兵衛が請けている。」
3. 越前 面谷鉛山
福井県の地名によれば、3)
「「面谷銅山」の項には、鉛山の存在については記載なし。「中天井鉱山」の項
には、上秋生(かみあきう)にある鉛・亜鉛鉱山。江戸中期、大野藩の経営により栄えた」とある。
『福井県史』 面谷鉛山によれば、4)
「「絵図記」に、「大野郡伊勢三か村に鉛山あり」と記している。延宝6年(1678)年6月の訴状中に、先年大野藩領の伊勢村・秋生村に銅・鉛山吹き申すにつき落水悪水となり両村田地の荒れた先例を述べている。」
筆者は、面谷銅山から西方5~10kmにあたる伊勢村鉛山や上秋生村の中天井(なかてんじょう)鉛山の稼行が、江戸初期にあったと推測する。
4. 播磨 桜(さくら)銅山
兵庫県の地名Ⅱ「桜山村」によれば、5)
「元禄13年(1700)領主畑本松井氏は江戸中橋の4人の商人に桜山銅山の開発を請負わせ、銅256貫を製錬し大坂に送り出している(「桜山銅山請負覚」)」とある。
名称は桜山銅山とあるが、これが桜銅山に相当すると筆者は推測する。
5. 豊後 尾平蒸籠銅山
大分県の地名「尾平鉱山跡」によれば、6)
「--尾平鉱山は山間一帯に分布する鉱山の総称であったらしい。蒸籠山(こしきやま)は元和3年(1617)に操業を始め錫の産出があり、薑谷(はじかみだに)では正保4年(1647)から錫の産出が始まり、元禄11年(1698)には大繁盛をしたと伝えられる。また蒸籠山慶賃(けいちん、慶珍)谷では天和2年(1682)銅・白目が産出して3年ほどは藩営で採掘されたがまもなく衰え、正徳2年(1712)頃一時鉛の産出があったという。」
6. 豊後 大平銅山
「宝の山」の註には、木浦鉱山の内にあるということだが、大分県の地名の「木浦鉱山」の項では、当時は主に鉛・錫山としてあり、大平銅山の名はなかった。一方、「宇目町大平」の地名には、いくつかの村があるが、大平銅山の名はなかった。7)
大平銅山の存在を文献上では確認できなかった。
7. 出雲 橋波銅山
島根県の地名「一久保田村(ひとくぼたむら)」一 窪田(ひとくぼた)の項に、
「「郡村誌」によれば、村の北端の銀山谷(かなやまだに)に銅山跡が残る。伝説によると応仁年間(1467-69)伊秩(いじち)城主の伊秩氏がこの地に封ぜられて採掘に着手したが大永2年(1522)伊秩城落城とともに休山、延宝年間(1673-81)に数年間採掘されたが、のち再び休山となったといわれる。」
「佐津目村(さつめむら)」の項に
「安永年間(1772-81)の庄屋弥平太による大谷山乗誓庵由来略記によると、大永年間(1521-28)以前にすでに銅山守護の祠があり、一時は一千軒を超える堀子の小屋が軒を並べて溶きがあったと伝える。」8)
橋波は、上記二つの銅山から数km東南の附近に位置するので、そこにも銅山があったと筆者は推定する。
8. 備中 吉岡(よしおか)銅山
泉屋(住友)が天和元年(1681)から元禄11年(1698)まで請負った(泉屋第一次稼行)。この間 貞享2年(1685)から元禄4年(1691)に大水抜坑道を掘削した。11)12)
注 文献など
1)愛知県総合教育センター>愛知エースネット>津具金山
2)日本歴史地名体系21 岐阜県の地名(平凡社 1989.7)p670
3)日本歴史地名体系18 福井県の地名(平凡社 1981.9)p50,P79
4)ホームページ『福井県史』通史編4 近世二 面谷鉛山
5)日本歴史地名体系29 兵庫県の地名Ⅱ(平凡社 1999.10)p735
6)日本歴史地名体系45 大分県の地名(平凡社 1993.2)p841
7)日本歴史地名体系45 大分県の地名(平凡社 1993.2)p714,p718
8)日本歴史地名体系33 島根県の地名(平凡社 1995.7)p351~352
9)前々報「切上り長兵衛は、開坑時の別子銅山で働いていた」
10)前報「切上り長兵衛が稼いだ備中國白石銅山は、小泉銅山ではないか」
11)泉屋叢考第12輯「住友の吉岡銅山第一次経営」住友修史室(昭和35 1960)
12)鉱山札の研究「吉岡銅山札」
mineralhunters.web.fc2.com/yoshiokadozanhuda.html
図1. 切上り長兵衛が働いた鉱山一覧
「宝の山」と「未来記」で「切上り、切上り長兵衛、庄屋長兵衛」が「稼いだ、掘った、致した」と書かれた鉱山は、以下の12か所である。筆者が推定する移動順に記した。
1. 三河 津具(つぐ)金山
2. 美濃 畑佐(はたさ)銅山
3. 越前 面谷(おもだに)鉛山
4. 播磨 桜(さくら)銅山
5. 豊後 尾平蒸籠(おびらこしき)銅山
6. 豊後 大平(おおひら)銅山
7. 出雲 橋波(はしなみ)銅山
8. 石見 岩屋(いわや)鉛山9)
9. 備中 白石(しらいし)銅山10)
10. 備中 吉岡(よしおか)銅山
11. 伊予 立川(たつかわ)銅山
12. 伊予 別子(べっし)銅山
これらの位置を図1に示した。
その当時の状況は以下のとおりである。
1. 三河 津具金山
愛知エースネットの津具金山によれば、1)
「津具に砂金の出ることを知った武田信玄は,元亀3年(1572)いち早くこの土地の砂金の採取を始めた。 金鉱脈を発見した武田氏は,その家臣を金堀の奉行とし,いわゆる甲州金二十四万両を ここから採掘したと語り継がれており,武田信玄が軍資金を得るために採掘したので,「信玄坑」とも呼ばれている。武田氏が長篠の戦いで敗戦した後は,織田信長が金山の継続を図った。信長の書状には,金を掘っていた鉱夫に対して 金を掘り続けるようにとの命令が書かれている。津具金山は徳川時代にも継続されたが,産出量の多い伊豆,佐渡の金山が 発見されてからは自然休山となった。」
筆者は、以上の記事から、切上り長兵衛が稼いだと思われる1660年頃は細々と掘っていたのではないかと想像する。
2. 美濃 畑佐銅山
岐阜県の地名「畑佐村」の項によれば、2)
「金山普請申付状では、銅山開発は延宝年間(1673-81)頃とも思われる。天和三年(1683)から5年間、新伝ヶ洞の開発を大坂屋惣兵衛が請けている。」
3. 越前 面谷鉛山
福井県の地名によれば、3)
「「面谷銅山」の項には、鉛山の存在については記載なし。「中天井鉱山」の項
には、上秋生(かみあきう)にある鉛・亜鉛鉱山。江戸中期、大野藩の経営により栄えた」とある。
『福井県史』 面谷鉛山によれば、4)
「「絵図記」に、「大野郡伊勢三か村に鉛山あり」と記している。延宝6年(1678)年6月の訴状中に、先年大野藩領の伊勢村・秋生村に銅・鉛山吹き申すにつき落水悪水となり両村田地の荒れた先例を述べている。」
筆者は、面谷銅山から西方5~10kmにあたる伊勢村鉛山や上秋生村の中天井(なかてんじょう)鉛山の稼行が、江戸初期にあったと推測する。
4. 播磨 桜(さくら)銅山
兵庫県の地名Ⅱ「桜山村」によれば、5)
「元禄13年(1700)領主畑本松井氏は江戸中橋の4人の商人に桜山銅山の開発を請負わせ、銅256貫を製錬し大坂に送り出している(「桜山銅山請負覚」)」とある。
名称は桜山銅山とあるが、これが桜銅山に相当すると筆者は推測する。
5. 豊後 尾平蒸籠銅山
大分県の地名「尾平鉱山跡」によれば、6)
「--尾平鉱山は山間一帯に分布する鉱山の総称であったらしい。蒸籠山(こしきやま)は元和3年(1617)に操業を始め錫の産出があり、薑谷(はじかみだに)では正保4年(1647)から錫の産出が始まり、元禄11年(1698)には大繁盛をしたと伝えられる。また蒸籠山慶賃(けいちん、慶珍)谷では天和2年(1682)銅・白目が産出して3年ほどは藩営で採掘されたがまもなく衰え、正徳2年(1712)頃一時鉛の産出があったという。」
6. 豊後 大平銅山
「宝の山」の註には、木浦鉱山の内にあるということだが、大分県の地名の「木浦鉱山」の項では、当時は主に鉛・錫山としてあり、大平銅山の名はなかった。一方、「宇目町大平」の地名には、いくつかの村があるが、大平銅山の名はなかった。7)
大平銅山の存在を文献上では確認できなかった。
7. 出雲 橋波銅山
島根県の地名「一久保田村(ひとくぼたむら)」一 窪田(ひとくぼた)の項に、
「「郡村誌」によれば、村の北端の銀山谷(かなやまだに)に銅山跡が残る。伝説によると応仁年間(1467-69)伊秩(いじち)城主の伊秩氏がこの地に封ぜられて採掘に着手したが大永2年(1522)伊秩城落城とともに休山、延宝年間(1673-81)に数年間採掘されたが、のち再び休山となったといわれる。」
「佐津目村(さつめむら)」の項に
「安永年間(1772-81)の庄屋弥平太による大谷山乗誓庵由来略記によると、大永年間(1521-28)以前にすでに銅山守護の祠があり、一時は一千軒を超える堀子の小屋が軒を並べて溶きがあったと伝える。」8)
橋波は、上記二つの銅山から数km東南の附近に位置するので、そこにも銅山があったと筆者は推定する。
8. 備中 吉岡(よしおか)銅山
泉屋(住友)が天和元年(1681)から元禄11年(1698)まで請負った(泉屋第一次稼行)。この間 貞享2年(1685)から元禄4年(1691)に大水抜坑道を掘削した。11)12)
注 文献など
1)愛知県総合教育センター>愛知エースネット>津具金山
2)日本歴史地名体系21 岐阜県の地名(平凡社 1989.7)p670
3)日本歴史地名体系18 福井県の地名(平凡社 1981.9)p50,P79
4)ホームページ『福井県史』通史編4 近世二 面谷鉛山
5)日本歴史地名体系29 兵庫県の地名Ⅱ(平凡社 1999.10)p735
6)日本歴史地名体系45 大分県の地名(平凡社 1993.2)p841
7)日本歴史地名体系45 大分県の地名(平凡社 1993.2)p714,p718
8)日本歴史地名体系33 島根県の地名(平凡社 1995.7)p351~352
9)前々報「切上り長兵衛は、開坑時の別子銅山で働いていた」
10)前報「切上り長兵衛が稼いだ備中國白石銅山は、小泉銅山ではないか」
11)泉屋叢考第12輯「住友の吉岡銅山第一次経営」住友修史室(昭和35 1960)
12)鉱山札の研究「吉岡銅山札」
mineralhunters.web.fc2.com/yoshiokadozanhuda.html
図1. 切上り長兵衛が働いた鉱山一覧
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