明和三年(1766)六月に書かれた「豫州別子御銅山未来記」の中に、次の一節がある。
山留切リ揚リ長兵衛 同山留源四郎 久右衛門 共に阿州之産、備中國白石銅山之稼人也、其後同國川上郡吹屋村銅山に移居、支配人重(十)右衛門 助七在勤中有功之者共也、年舊敷致住居候故同所本教寺者頼ミ寺也、切リ揚リ長兵衛伊豫國新居郡立川銅山江立越暫致住居候、此間に立川銅山南方峯越に大𨫤鉉銅山有之事を見立、密に備中國吹屋村十右衛門方江参り此趣を告知せ候、-----
吹屋村銅山とは、吉岡銅山を指していることは明白であるが、泉屋が経営していたこともあるのになぜ吉岡銅山と書かずに、吹屋村銅山と書いたのか。場所をはっきりわからせるためなのか、あるいは、泉屋では普段、吹屋村銅山と呼んでいたのであろうか。
では備中國白石銅山とは、何処の銅山であるのか。
1. 「備中 白石銅山」「岡山県 白石鉱山」で検索したが、該当するものはなかった。
2. 当時の吉岡銅山の北に隣接する北方銅山が白石銅山と書かれた可能性について調べた。
泉屋叢考の吉岡・北方両銅山古図と吉岡銅山絵図を比べてみれば、吉岡・北方両銅山の境線が描かれており、本教寺の北にあたる白石は、吉岡銅山側にあり、北方銅山を白石銅山と書くことはなかったと推定した。1)2)3)4)
「未来記」に「備中國白石銅山之稼人也、其後川上郡吹屋村銅山に移居」と書かれており、白石銅山は、川上郡吹屋にないこともわかる。
3. 次に、備中の銅山で白石銅山と呼ばれる可能性がある銅山を探した結果、筆者は、吉岡銅山の南方8kmの川上郡成羽村小泉にあった小泉銅山が該当するのではないかと推定した。小泉村は成羽川沿いにあり、付近には石灰石が露出したところもあり(現在も国内有数の採取地である)、厚い石灰岩層からできており、5) 白い石(石灰岩)、すなわち白石が採れる所にある銅山という意味で白石銅山と書いたと推定した。あるいは、小泉銅山のひとつの鋪に白い石に由来する白石鋪(間歩)というのがあったのではないかと推定した。
4. 小葉田淳は以下のように記している。6)
小泉村は備中国川上郡に属し、著名な吉岡銅山の所在した吹屋村等とともに、寛永末(1640頃)以来は幕領として固定したようである。
住友家「元禄八年覚留帳」の中に「小泉山事」の記事があるが、これは元禄9年(1696)4月に住友が小泉銅鉛山の稼行方を出願するさいに記されたものである。これによると、
寛永20年(1643)より寛文5年(1665)まで、吉岡銅山の稼行人は三度変っているが、これは実は吉岡のみでなく小泉をあわせて、両山をともに請負ったのである。そして、天野屋新左衛門稼行時に、吹屋は吹屋庄屋、小泉は小泉庄屋の改めで済ませたというのは、運上の秤定のことである。ところが、同記録によると、平野屋等は両山を請けて、はじめ小泉も採掘したのであるが、吉岡の成績が良好であるため、吉岡一辺を稼ぐようになったとある。平野屋等が吉岡を寛文5年(1665)まで稼行し、その後4年間をおき、5年後の寛文10年(1670)に江戸の大坂屋等四人が吉岡を受けたというから、この間吉岡は中絶したことになる。ところが、小泉は万治元年(1658)以後事実上中絶のままで、二三年後の延宝8年(1680)、つまり住友が吉岡稼行を出願した後に、京の安井十兵衛が、5か年切、はじめ2年は1か年につき銀250枚、あとの1ヵ年は300枚の運上で請けた。しかし稼行は全く失敗して、質として書入れた京の家屋は没収される始末であった。--
住友が、出願の文中に、先年度々請負稼ぐ者があったが、間歩はみな深鋪で水を湛え、その上数十年(あるいは40年とも)中絶したため間歩はすべて潰れていると述べたが、これはつまり万治元年(1658)以来は休止であったことをいい、京の安井は最初より手をつけかねたのが実情であったらしい。
小葉田淳の書いたとおりだとすると切上り長兵衛らが稼いだと思われる時期には全く小泉銅山は稼行していないことになるが、筆者は次のように考える。
出願文で、まず現状を非常に悪く書くことはありがちなことである。全ての間歩が操業できていなかったとは考えにくい。また京の安井が全く状況を知らずに請負ったとは考えにくい。そして全く山に手を付けずに京の家屋をみすみす没収されてしまうとは考えにくい。
少しは採掘できる間歩を操業したり、新たな間歩を操業したりしたが、うまくいかなかったということではないかと推測する。これらの細々操業していたのが、白石銅山と書かれたのではないかと推測する。
注 引用文献など
1. 泉屋叢考第12輯「住友の吉岡銅山第一次経営」住友修史室(昭和35)に「吉岡・北方両銅山古図 境線入り」あり
2. 泉屋叢考第14輯「住友の吉岡銅山第二次経営とその後」(昭和44)に「吉岡銅山絵図 白石、本教寺示しあり」
3. 中川清 鉱山札の研究「吉岡銅山札」の中に、上記の二つの図あり
mineralhunters.web.fc2.com/yoshiokadozanhuda.html
4. 備中高梁情報ステーション>備中吹屋>吹屋あれこれ の中に歴史記載あり
5. 高梁市ホームページ>広報たかはし>地名をあるく46.小泉
6. 小葉田淳「日本銅鉱業史の研究」p4-6 (思文閣 平成5年 1993) 備中小泉銅鉛山史 江戸前期の稼行
山留切リ揚リ長兵衛 同山留源四郎 久右衛門 共に阿州之産、備中國白石銅山之稼人也、其後同國川上郡吹屋村銅山に移居、支配人重(十)右衛門 助七在勤中有功之者共也、年舊敷致住居候故同所本教寺者頼ミ寺也、切リ揚リ長兵衛伊豫國新居郡立川銅山江立越暫致住居候、此間に立川銅山南方峯越に大𨫤鉉銅山有之事を見立、密に備中國吹屋村十右衛門方江参り此趣を告知せ候、-----
吹屋村銅山とは、吉岡銅山を指していることは明白であるが、泉屋が経営していたこともあるのになぜ吉岡銅山と書かずに、吹屋村銅山と書いたのか。場所をはっきりわからせるためなのか、あるいは、泉屋では普段、吹屋村銅山と呼んでいたのであろうか。
では備中國白石銅山とは、何処の銅山であるのか。
1. 「備中 白石銅山」「岡山県 白石鉱山」で検索したが、該当するものはなかった。
2. 当時の吉岡銅山の北に隣接する北方銅山が白石銅山と書かれた可能性について調べた。
泉屋叢考の吉岡・北方両銅山古図と吉岡銅山絵図を比べてみれば、吉岡・北方両銅山の境線が描かれており、本教寺の北にあたる白石は、吉岡銅山側にあり、北方銅山を白石銅山と書くことはなかったと推定した。1)2)3)4)
「未来記」に「備中國白石銅山之稼人也、其後川上郡吹屋村銅山に移居」と書かれており、白石銅山は、川上郡吹屋にないこともわかる。
3. 次に、備中の銅山で白石銅山と呼ばれる可能性がある銅山を探した結果、筆者は、吉岡銅山の南方8kmの川上郡成羽村小泉にあった小泉銅山が該当するのではないかと推定した。小泉村は成羽川沿いにあり、付近には石灰石が露出したところもあり(現在も国内有数の採取地である)、厚い石灰岩層からできており、5) 白い石(石灰岩)、すなわち白石が採れる所にある銅山という意味で白石銅山と書いたと推定した。あるいは、小泉銅山のひとつの鋪に白い石に由来する白石鋪(間歩)というのがあったのではないかと推定した。
4. 小葉田淳は以下のように記している。6)
小泉村は備中国川上郡に属し、著名な吉岡銅山の所在した吹屋村等とともに、寛永末(1640頃)以来は幕領として固定したようである。
住友家「元禄八年覚留帳」の中に「小泉山事」の記事があるが、これは元禄9年(1696)4月に住友が小泉銅鉛山の稼行方を出願するさいに記されたものである。これによると、
寛永20年(1643)より寛文5年(1665)まで、吉岡銅山の稼行人は三度変っているが、これは実は吉岡のみでなく小泉をあわせて、両山をともに請負ったのである。そして、天野屋新左衛門稼行時に、吹屋は吹屋庄屋、小泉は小泉庄屋の改めで済ませたというのは、運上の秤定のことである。ところが、同記録によると、平野屋等は両山を請けて、はじめ小泉も採掘したのであるが、吉岡の成績が良好であるため、吉岡一辺を稼ぐようになったとある。平野屋等が吉岡を寛文5年(1665)まで稼行し、その後4年間をおき、5年後の寛文10年(1670)に江戸の大坂屋等四人が吉岡を受けたというから、この間吉岡は中絶したことになる。ところが、小泉は万治元年(1658)以後事実上中絶のままで、二三年後の延宝8年(1680)、つまり住友が吉岡稼行を出願した後に、京の安井十兵衛が、5か年切、はじめ2年は1か年につき銀250枚、あとの1ヵ年は300枚の運上で請けた。しかし稼行は全く失敗して、質として書入れた京の家屋は没収される始末であった。--
住友が、出願の文中に、先年度々請負稼ぐ者があったが、間歩はみな深鋪で水を湛え、その上数十年(あるいは40年とも)中絶したため間歩はすべて潰れていると述べたが、これはつまり万治元年(1658)以来は休止であったことをいい、京の安井は最初より手をつけかねたのが実情であったらしい。
小葉田淳の書いたとおりだとすると切上り長兵衛らが稼いだと思われる時期には全く小泉銅山は稼行していないことになるが、筆者は次のように考える。
出願文で、まず現状を非常に悪く書くことはありがちなことである。全ての間歩が操業できていなかったとは考えにくい。また京の安井が全く状況を知らずに請負ったとは考えにくい。そして全く山に手を付けずに京の家屋をみすみす没収されてしまうとは考えにくい。
少しは採掘できる間歩を操業したり、新たな間歩を操業したりしたが、うまくいかなかったということではないかと推測する。これらの細々操業していたのが、白石銅山と書かれたのではないかと推測する。
注 引用文献など
1. 泉屋叢考第12輯「住友の吉岡銅山第一次経営」住友修史室(昭和35)に「吉岡・北方両銅山古図 境線入り」あり
2. 泉屋叢考第14輯「住友の吉岡銅山第二次経営とその後」(昭和44)に「吉岡銅山絵図 白石、本教寺示しあり」
3. 中川清 鉱山札の研究「吉岡銅山札」の中に、上記の二つの図あり
mineralhunters.web.fc2.com/yoshiokadozanhuda.html
4. 備中高梁情報ステーション>備中吹屋>吹屋あれこれ の中に歴史記載あり
5. 高梁市ホームページ>広報たかはし>地名をあるく46.小泉
6. 小葉田淳「日本銅鉱業史の研究」p4-6 (思文閣 平成5年 1993) 備中小泉銅鉛山史 江戸前期の稼行
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