今日は不思議な日です
疲れたから 生協の注文書でも書こうと思っていたけれど
なぜかブログで書きたいことに出会ってしまうのです
必要メールをチェックしていて
どういうわけか Chromeを使いなさいとかが出て
使ってみれば なぜか とても文字が読みやすく画像も綺麗
ツイッターの 動画も全部見ることができるのではないかとも思えるし
動画サイトで「HTML5」の動画を再生できない場合の対策方法について
ここで見ることができなかったはずの『南北会談生放送中』も見える
そして 今 一番書きたいことは
坂本龍一 死を垣間見てわかったのは、意外なことだった
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自らの「死」を垣間見た時、人は何を考えるのか?
そして、今でも音楽家であり続ける坂本龍一の姿を見て思う。
死を目の前にしても、なぜ音楽を作り続けられるのだろうか?
何かを作るというのは、それほどに大きな意味を持つのか?
教授。教えてください。娘の私に。
(取材:BuzzFeed Japan 嘉島唯)
病床で考えたのは、音楽のことなんかじゃなかった
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調律。それは自然の流れに沿って狂っていくものを正す作業だ。
例えば、人間はどうだろうか。 調律しないと、ピアノのように人間もどんどん壊れていく。
「人間も自然に還っているからね」
津波ピアノは、坂本自身を投影する存在だ。
「津波ピアノと大災害と......大きな自然な力が及ぼしたものでした。
それと、ぼく個人の病気。同じことなんだと強く感じました。
津波ピアノで知ったことと、がんになって知ったことはすごく似ている」
「生老病死という言葉がある。味気ないですけど、生まれて老いて病気になって死ぬ。
それは自然なこと。一方で人間のする、考えたり音楽を作ることは反自然的なことですね」
老い、体が動かなくなっていく過程は、普通にできていたことができなくなることを指す。
苛立ち、落ち込み、途方に暮れたりもする。
そんな姿を見ると「調律してあげたい」と思うのが人の性だ。
ピアノを調律しなくなった坂本は、どう考えるのだろう?
「台風や地震が起きるのも同じこと。これは自然が調律している自然のプロセス。
人が死に向かうのは自然なこと。
でも、それを見て、調律してあげたいと思うのも、人間として自然なこと」
「僕自身、すごく調律しました。自然に抗ってるなぁって思います。
自然の流れだとわかっていても、あれが食べたいとか、
音楽を作りたいとか。まだまだ、生きたいんだろうなぁ。意味はなくても生きたいって」
音楽や絵画などは
言葉が通じなくても
世界中で理解しあえるから
だから
私は好き
by Cândido Portinari
(via omgmariatavareslove)